◆野崎歓氏「絵の見方が変わるようなインパクトを持つ一冊」『週刊読書人』2014年3月28日号
(書評:秋丸知貴著『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』晃洋書房・2013年)


 セザンヌの名前で多くの人が思い浮かべるのは、おそらく「リンゴ」だろう。あるいは「サント=ヴィクトワール山」、それとも「水浴図」か。いずれにしろ限られた「自然」を題材として執拗に描き続け、ほとんど抽象表現に近づくまでに絵画の純度を高めていった画家、というのが一般的なイメージではないだろうか。

 本書はそうした画家をめぐる紋切型に真っ向から揺さぶりをかけようとする、力のこもった論考である。評者はセザンヌ研究について門外漢であり、専門家が読んだらどのような評価がなされるのかはわからない。だが、本書を読んだあとでは絵の見方が変わるようなインパクトをもつ一冊であることは確かだろう。

 表題にあるとおり、画家と「鉄道」との関係が議論の鍵を握る。印象派と鉄道という題目自体はすでによく知られている。マネやモネのサン=ラザール駅を描いた作品がすぐに思い浮かぶ。だがセザンヌはどうか。十年ほど前に開かれた充実した展覧会「鉄道と絵画」(監修・三浦篤)のカタログを取り出してみても、セザンヌへの言及は見当たらない。

 もちろんセザンヌは、蒸気機関車が主人公といっていい小説『獣人』の作者ゾラとのつきあいの深かった人である。鉄道と無縁だったはずはない。とそこまでは素人にも考えられるとして、本書が示す展開はまことにダイナミックである。まず印象派における蒸気鉄道の表象を概観したのち(第一章)、セザンヌの「感覚」を主軸におく絵画理論を要約(第二章)、実作の示す特徴を十項目に整理する(第三章)。先行研究につぶさに当たりつつ、手際よくプレゼンテーションがなされている。何といっても本書の醍醐味を味わえるのは、いよいよセザンヌと鉄道の抜き差しならぬかかわりを明らかにしていく後半部である。

 そもそもセザンヌは他の印象派画家たちに先駆け、モネの最初の鉄道絵画《田舎の列車》(一八七〇年)よりも早く《ボニエールの船着場》(一八六六年)で鉄道画題を扱っているという。機関車は描かれていないが、よく見ると蒸気鉄道の電信柱と電線が描き込まれているのだ。第四章におけるそうした指摘を皮切りに、続く第五章、第六章では徹底した検証が面白く繰り広げられている。

 秋丸はタブローを凝視しながら、同時に“現場検証”も敢行する。セザンヌの暮らしたエクス・アン・プロヴァンスが「鉄道の街」であったことに着目し、当時の路線が現在も残っていること、セザンヌが日常的に鉄道風景に接していたことを現場に赴いて確認する。その結果、たとえばサント=ヴィクトワール山と鉄道橋をともに画面に収める構図を、画家が意識的に選択していたことが判明する。そのとき、風景画は「手つかずの純粋な自然の中で」描かれたのではなく「先進的で近代的な蒸気鉄道と密着して」描かれたものであるとする主張が、説得的に立ち上がってくる。セザンヌにおける自然は、鉄道によって媒介されていたのである。

 もちろん、秋丸が慎重に付け加えるとおり、鉄道による影響のみでセザンヌの絵画を説明できるわけではないだろう。だがこの労作によって、鉄道とともにあるセザンヌの姿が明確に浮かび上がってきたことは間違いない。牧歌的な自然のただなかに「蒸気鉄道が闖入」した時代の「人工景観」という性格を、彼の作品は備えている。自然と近代の共存と混淆を刺激として受け止め、絵画にとってのダイナミズムをそこから引き出した点で、セザンヌはまさしくボードレール的な「近代生活の画家」だったのである。

 「疾駆する列車の車窓」と直結した空間としてタブローを把握しようとする著者の姿勢には、絵画を動的な生成変化の場と見るいきいきとした感覚が備わっていて、それが本書の大きな魅力となっている。印象派好きの多いわが国のことだから、本論文のテーゼは広い読者の興味を喚起しうるだろう。この研究内容の、新書など、より啓蒙的な形での発表もぜひ望みたい。




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