第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に   秋丸 知貴

 写真は、近代絵画にどのような影響を与えたのだろうか?
 この問題について、本章は近代技術による知覚の変容という視点から考察する。

  1 写真について

 既に紀元前四世紀に、アリストテレスが『問題集』でその原理を書き留めているカメラ・オブスキュラの投影像を(1) 、感光剤を用いて支持体に定着させる「写真」が発明されたのは、実に一九世紀前半である。
 まず、一八二六年頃に、ジョセフ・ニセフォール・ニエプスがアスファルトを感光剤とするヘリオグラフィで現存する世界最初の実景写真を撮影する。以後、一八三九年にルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが銀化合物を感光剤とする銀板写真を発明し、一八四一年にウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが感光紙によるネガポジ式のカロタイプを開発し、一八五一年にフレデリック・スコット・アーチャーがコロジオン湿板法を考案し、一八七一年にリチャード・リーチ・マドックスがゼラチン乾板法を発案し、一八八四年にジョージ・イーストマンがロール・フィルムを実用化する等、写真技術は飛躍的に改良される。
 その結果、単線的ではないにしても、露光の短縮化、映像の鮮明化、定着の堅固化、焼増の可能化、移動の容易化、操作の簡便化、費用の低廉化等が進み、写真の一般社会への普及が進む。特にフランスでは、一八五〇年代後半に名刺判写真が流行し、既に一八六〇年代には肖像写真は日常生活の一部となっている。

  2 絵画と写真について

 従来、絵画に対する写真の影響は、アーロン・シャーフやオットー・シュテルツァーを筆頭に様々に言及されてきた(2)。
 例えば、対立する画派の領袖である、新古典派のジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル(図1)とロマン派のユジェーヌ・ドラクロワ(図2)が、共に写真を絵画制作の下準備に利用していたことは有名である。また、実際にドラクロワは、一八五一年にパリで設立された世界最初の写真協会の創立会員でもある。
 さらに、写実派(レアリズム)のギュスターヴ・クールベ(図3)が追求する絵画上の即物的客観性に、写真の即物的客観性の感化が全くなかったと考えることは不可能であろう。


図1
(左) ナダール撮影 《クリスティーヌ・ルー》 1856年 写真
(右) ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル 《泉》 1856年頃


図2
(左) ユジェーヌ・デ・リュー 《人物研究》 1853年頃 写真 
(右) ユジェーヌ・ドラクロワ 《オダリスク》 1857年頃


図3
(左) 撮影者不詳 撮影時不詳 写真
(右) ギュスターヴ・クールベ 《女と鸚鵡》 1866年


図4
(左) アドルフ・ブラウン撮影 《シヨン城》 1867年 写真 
(右) ギュスターヴ・クールベ 《シヨン城》 1874年

 ただし、これらの作品は、クールベの極端な作例(図4)を除いては、既存の客観的な写像をただ忠実に模写するのではなく、そこに画趣に富む様々な主観的修正を加える点で共通している。つまり、それぞれの人物達のポーズはやや恣意的に改変されている。また、クールベの図4でさえ、その彩色はある意味で主観的修正と言えなくもない。その点で、これらの写真の影響は、あくまでも自然な人間的視覚を前提とするものであり、伝統的なルネサンス的リアリズムの半面である現実主義的技術性の補助に留まり、しかもそのもう半面である理想主義的芸術性に従属していることに注意したい。
 また、エドゥアール・マネやその周辺の印象派が、写真と関係が深いこともよく知られている。事実、一八七四年の印象派の最初の団体展は、彼等の共通の友人である写真家ナダールの元写真館で開催されている。
 さらに、マネや印象派の絵画には、自然な人間的視覚とは異なる写真独自の機械的視覚との相似性を様々に見て取れる。そのため従来、近代絵画における写真の影響については、マネや印象派が取り上げられることが多かった。
 まず、マネや印象派に対する写真的視覚の影響は、画題面では、マネを筆頭とする、従来の主流であった空想的物語画・歴史画に代わる現実的風俗画・風景画の重視(図5)に指摘されている。
 また、造形面では、エドガー・ドガに代表される、客観的で即物的ゆえに奇抜で非対称的になる視点や、対象が画面外にはみ出す枠取に(図6)、またギュスターヴ・カイユボットに明瞭な広角構図に(図7)、さらにクロード・モネに典型的な映像の瞬間的個別性の強調や(図8)、《カピュシーヌ大通り》(一八七三年)の群集描写に顕著な被写体や写真機のブレに似た粗略的筆触等に、写真的視覚の反映が主張されている。


図5 エドゥアール・マネ 《オランピア》 1863年


図6 エドガー・ドガ 《カフェ・コンセールの歌手》 1878年


図7 ギュスターヴ・カイユボット 《ヨーロッパ橋》 1876年頃


図8
(左) クロード・モネ 《ジヴェルニーの積藁、夕陽》 1888年 
(右) クロード・モネ 《ジヴェルニーの積藁、朝の効果》 1888‐89年

 ただし、ここで述べたような造形的特徴を持つ写真は、露光技術が未発達で撮影速度が遅い上に、まだ写真文法も古典的な絵画文法に従属していた当時では、数が少ない上に失敗物として排除もされていたので、まだ人目に触れることは少なかった。その意味で、これらのマネや印象派に対する写真的視覚の影響は、カーク・ヴァネドーやピーター・ガラシが指摘するように(3)、画家が特定の写像に映った写真独自の機械的視覚をそのまま直接的に模写したというよりも、むしろ画家が絵画造形の内在的発展の延長上で、いち早く写真の機械的視覚に潜在する造形可能性に触発された点が重要である。
 これに関連して、ジャン・コクトーは『職業の秘密』(一九二二年)で、「写真は非現実的で、色価と遠近法を変化させる。その意地悪な目は、私達の目が都合に応じて修正した後に配列するものを、愚直に記録する(4)」と言っている。
 また、ヴァルター・ベンヤミンは「写真小史」(一九三一年)で、「当然、写真機に語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは異なる。異なるのは何よりも、人間により意識を織り込まれた空間の代りに、無意識を織り込まれた空間が立ち現れることである」と述べている(5)。
 さらに、高階秀爾は『世紀末芸術』(一九六三年)で、「カメラは、人間の眼以上の再現力を持っているがゆえに、人間中心のレアリスムからはみ出てしまう『虚偽の』映像を与える(6)」と説いている。
 そして、伊藤俊治は『〈写真と絵画〉のアルケオロジー』(一九八七年)で、「写真の出現はある意味で、イメージを『人間の眼』へ近づけてゆこうとする一九世紀人の衝動が限界につきあたった時点で起こり、『人間の眼』の限界を引き受けて新しい地平を切り開いていったということができるだろう。しかし、それはもはや『人間の眼』の延長ではなく、『機械の眼』の展開であった」と論じている(7)。
 基本的に、これまで絵画に対する写真の影響は、当初はアングル、ドラクロワ、クールベのように人間的視覚に基づく自然主義的なルネサンス的リアリズムのための技術的補助手段として、また徐々にマネや印象派のように機械的視覚が啓示する新しい造形表現のための芸術的触媒として働いた点に説明されている。
 そして、写真という精確無比な再現上の強敵に対し、次第に絵画には、写真では再現できない媒体独自の造形表現が要求されるようになり、結果的に、単なる客観的再現描写とは異なる主観的で自律的な純粋抽象絵画が追求されたと解説されることが多い(8)。
 本章は、こうした従来の解釈を補足し、特に印象派と同時代の象徴派に、写真による知覚の変容の反映を指摘する。

  3 アウラと時間

 それでは、写真による知覚の変容は一体どのようなものだろうか?
 ここで言う、写真による知覚の変容は、ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を援用すれば、「脱アウラ的知覚」と換言できる。
 まず、ヴァルター・ベンヤミンは「写真小史」(一九三一年)で、「アウラ」について次のように述べている。
 アウラとは一体何か? 空間と時間からなる一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。安らかな夏の真昼、地平に連なる山並を、あるいは見つめている者に影を落としている木枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現れに関与するまで、目で追うこと――これが、この山々のアウラを、この木枝のアウラを呼吸することである(9)。
 また、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」(一九三五‐三六年)でも、「アウラ」について次のように反復している。
 アウラとは一体何か? 空間と時間からなる一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。安らかな夏の午後、地平に連なる山並を、あるいは安らかにしている者に影を落としている木枝を、目で追うこと――これが、この山々のアウラを、この木枝のアウラを呼吸することである(10)。
 これらの記述から、「アウラ」とは、「空間」と「時間」に関わる「ある遠さの一回的な現れ」であることが分かる。また、この場合の「ある遠さ」とは、「どれほど近くにあろうとも」現れる以上、「空間」的距離ではなく、「時間」的距離と解せる。
 つまり、まずこの「空間と時間からなる一つの奇妙な織物」という、「ある遠さの一回的な現れ」としての「アウラ」は、物が、その成立以来、その存在する「空間」で蓄積してきた、唯一無二の「時間」と解釈できる。なお、この場合の物には、主体と客体の両方が含まれる。
 また、「見つめている者」に「影を落としている木枝」を「目で追うこと」が、「この木枝のアウラを呼吸すること」である以上、主体が客体の「アウラを呼吸する」時には、まず主体と客体が、「いま・ここ」に存在すること、すなわち同一の時間・空間上に直接的に現存することが前提と考えられる。
 そして、物の「アウラを呼吸すること」が、「瞬間あるいは時間」が「それらの現れに関与する」まで「目で追うこと」である以上、主体が客体の「アウラを呼吸する」際には、同一の「空間」上で、主体が、自ら蓄積してきた「時間」の延長上で、客体を、それがこれまで蓄積してきた「時間」を背景に知覚することが条件と想定される。
 なお、この「目で追うこと」が「安らかな夏の午後」に「安らかにしている者」により行われている以上、その主体の客体に対する知覚は静態的で持続的と推定される。

  4 アウラと相互作用

 それでは、こうした蓄積的「時間」としての「アウラ」の内容は、具体的には一体どのようなものだろうか?
 この問題について、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」(一九三九年)で、「アウラ」について次のように触れている。「アウラの経験は、人間社会によく見られる反応形式が、無生物あるいは自然と人間の関係に転用されることに基づいている(11)」。
 また、ベンヤミンは「セントラルパーク」(一九三九年)で、「アウラ」について次のように言及している。「アウラの概念を、人間同士の社会的経験が自然に投影されたものとして流用すること。つまり、まなざしが送り返される(12)」。
 これらの描写から、「アウラ」の経験は、「人間」と「人間」の関係における「反応形式」が概念上の基本であり、さらにそれが「無生物」あるいは「自然」と「人間」の関係に転用されうることが分かる。そしてそこには、「まなざし」という視覚的問題が関わっていると推測できる。
 これに関連して、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、視覚に関わる「アウラ」について次のように説いている。「見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを開く。ある現れのアウラを経験するとは、その現れにまなざしを開く能力を授与することである(13)」。
 また、ベンヤミンは同稿で、視覚に関わる「アウラ」について次のように論じている。「まなざしには、自分がまなざしを送るものからまなざしを送り返されたいという期待が内在する。この期待(これは、言葉の単純な意味におけるまなざしと同様に、思考における注意という志向的まなざしにも付随しうる)が応えられる所では、まなざしには充実したアウラの経験が与えられる(14)」。
 これらの説明から、ベンヤミンの「まなざし」は、意識における志向的注意そのものを指すと解せる。従って、特に視覚の場合、「まなざし」とは、単に目に入ることではなく、意識を集中して見ること、つまり、見つめること、注視、観察等を意味すると解釈できる。
 ベンヤミンによれば、主体が客体を「見つめる」時に客体が「まなざしを開く」ならば、主体は客体の「アウラ」を充実的に経験できる。この場合の「まなざしを開く」とは、その能力が別の個所で「まなざしを送り返す能力(15)」と換言されている以上、まず第一に、主体が客体に「まなざしを送る」際に、客体が主体に「まなざしを送り返す」ことと判読できる。
 ここで、客体が「見つめる者」になり、主体が「見つめられている者」になるならば、主体もまた客体に「まなざしを送り返す」ことになる。すなわち、ここでは、相互の注視により相互の注視が喚起され続ける相互反応が生じることになる。言い換えれば、これは、同一の時空間上に存在する主体と客体の間における、相互の作用(アクション)により相互の反作用(リアクション)が喚起され続ける、「相互作用(インタラクション)」である。
 例えば、ベンヤミンは「運命と性格」(一九一九年)で、主体と客体の「相互作用」について次のように記している。
 作用する人間と外的世界の間では、むしろ全てが相互作用であり、両者の作用圏は相互に行き合っている(16)。

  5 アウラと痕跡

 これらのことから、「アウラ」とは、この「相互作用」による物の変化と解せる。また、この変化が「痕跡」として「時間」的に蓄積された総体も、「アウラ」と解釈できる。
 つまり、「アウラ」とは、物がその誕生以来、持続的経験体として備蓄してきた、固有の付加的「痕跡」全てと理解できる。そうであれば、「アウラの経験」(アウラを呼吸すること)とは、共に「痕跡」の「時間」的蓄積の総体に被われた主体と客体が、同一の時空間上で「相互作用」しつつ、その変化がさらに双方の「痕跡」の「時間」的蓄積の総体に更新され続ける経験と解釈できる。
 こうした「アウラ」を生み出す「相互作用」は、「まなざし」等の視覚的語彙を比喩と捉えれば、相手が無生物の場合でも成立しうる。
 実際に、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、視覚以外の感覚がもたらす「アウラ」に関して次のように解説している。「無意志的記憶に定住しつつ、ある観察対象の周りに集まろうとする諸表象を、この対象のアウラと呼ぶならば、その観察対象にまつわるアウラは、ある使用対象に熟練として沈積する経験に正に対応する(17)」。
 ここで、「ある使用対象に熟練として沈積する経験」が「アウラ」と対応するならば、当然「アウラ」を生み出す「相互作用」は、視覚だけに限定されるとは考えられない。すなわち、この「相互作用」には、視覚のみならず、触覚・聴覚・嗅覚・味覚の五感全てが関係すると推定できる。
 それでは、こうした「相互作用」による変化の内実は、具体的には一体どのようなものだろうか?
 それは、まず生物の場合には、主体が客体を見つめる時に、客体が主体を見つめ返す等の意識的反応の変化である。また、生物でも無生物でも、主体が客体に接触する時に、両者に生じる物質的構造の変化も考えられる。そして、主体と客体が様々に相互関与する際に、各々に備わる歴史的証言性もこうした変化に含めうる。
 事実、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品(第二版)」で、次の特徴を「アウラの概念(18)」にまとめている。「ある物の真正性は、その物質的存続から歴史的証言性まで、根源から伝達されうる全ての総体である(19)」。
 物は、それが存在し始めた原初から、その存在する場所で、同一の時空間上に存在する他の物と絶えず「相互作用」を行う。そして、その「相互作用」による変化は、「痕跡」の「時間」的蓄積としてそれぞれの物に堆積していく。
 その場合、生物・無生物を問わず、主体と客体の「相互作用」の度合が高ければ高いほど、それにより両者が被る変化、つまり「アウラ」は濃密に増える。特に、もしその主体が生物であれば、客体に対する注意の度合が高ければ高いほど、またそこで発揮される五感の度合が高ければ高いほど、相手に対する情動の密度も上昇し、相互に被る心理的変化や物理的変化、すなわち「アウラ」もまた濃密に増加する。
 同一の時空間上で、主体が客体に「まなざしを送る(注意を向ける)」と、客体は「まなざしを開く」。つまり、主体の蓄積的「時間」の最先端に客体が出現し、客体は主体に、「アウラ」、すなわち「痕跡」の「時間」的蓄積の総体に被われた自らを開示する。そして、主体を被う「痕跡」の「時間」的蓄積の総体には、その「アウラ」に被われた客体との「相互作用」による変化の「痕跡」が、その密度に応じて新たに加算されていく。
 同時に、客体の蓄積的「時間」の最前線にも主体が顕現し、主体は客体に、「アウラ」、すなわち「痕跡」の「時間」的蓄積の総体に被われた自らを顕示する。そして、やはり客体を被う「痕跡」の「時間」的蓄積の総体にも、その「アウラ」に被われた主体との「相互作用」による変化の「痕跡」が、その濃度に応じて再び累積されていく。
 そして、主体は、こうした客体との「アウラの経験」を通じて、眼前の客体のみならず、客体がそれまで悠久の時間の経過の中で邂逅してきた、全ての無数の相手の臨在をも感受しうるだろう。
 このことを、ベンヤミンは『パサージュ論』で次のように表現している。
 痕跡とアウラ。痕跡は、それを残したものがどれほど遠くにあろうとも、ある近さの現れである。アウラは、それを呼び起こすものがどれほど近くにあろうとも、ある遠さの現れである。痕跡においては、私達が物を捉える。アウラにおいては、物自身が私達を捕える(20)。

  6 アウラ的知覚・脱アウラ的知覚

 以上のことから、ベンヤミンの「アウラ」は、同一の時空間上に存在する主体と客体の相互作用により相互に生じる変化、及び相互に宿るその時間的全蓄積と読解できる。
 さらに、本書では、そうしたアウラを典型的に生み出す、主体が客体と同一の時空間上で原物的・直接的・集中的・五感的に相互作用する関係を「アウラ的関係」、その場合の主体の客体に対する知覚を「アウラ的知覚」と呼称する。そして、このアウラ的関係が十全に成立していない「脱アウラ的関係」の知覚を、「脱アウラ的知覚」と定義する。
 本質的に、天然環境における生来的肉体と本来的自然のアウラ的関係によるアウラ的知覚は、人間にとって全く自然である。ジョルジュ・フリードマンが『人間と技術に関する七つの研究』(一九六六年)等で提起する、技術が全て天然自然に基づく環境を指す「自然的環境(21)」では、基本的に人間の知覚は全てこのアウラ的知覚であり、そこでは一般的に人間は、意識集中と五感全体による持続的で充実的なアウラ的知覚に基づいて、自然や他者と綿密で感情移入的な情緒的相互関与を行い、それに対応する具象的で自然主義的な表象体系を形成していた。
 これに対し、主体と客体の間に「近代技術」が介入し、アウラ的関係が阻害され始めると、脱アウラ的関係が生じ、脱アウラ的知覚が発生する。つまり、ヴェルナー・ゾンバルトが近代技術の性格と見なす「有機的自然の限界からの解放(22)」が一般社会に普及すると、そうした脱自然的・近代的知覚が日常生活の様々な場面で台頭し、従来の具象的で自然主義的な表象体系を衰退させることになる。
 まず、脱アウラ的知覚の典型は、大都市群集である。
 つまり、蒸気機関による、商工業・運輸交通の加速的大量化を背景に勃興する大都市群集では、大勢が足早かつ疎遠に行き交うので、歩行者と通行人の関係は非常に瞬時的で表面的になり、視覚以外の触覚・聴覚・嗅覚・味覚による相互関与は相対的に減少する。また、その視覚自体も、歩行者は無関心に擦れ違う通行人にまなざしを送っても精神集中を伴う継続性をもってまなざしを送り返されることは不十分になる。
 つまり、大都市群集では、相互に流動する歩行者と通行人のアウラ的関係は極めて希薄化する。そして、歩行者には、その脱アウラ的関係の度合に応じて脱アウラ的知覚が生じ、それに比例して、個々の通行人は親密性を欠いた単なる束の間の万華鏡的な視覚印象に過ぎなくなる。
 この反自然的・反具象的な脱アウラ的知覚の造形的反映の一つが、正に印象派の「筆触分割」的斑点描法である。実際に、この動態的で抽象的な脱アウラ的知覚による対象の静態的具象性の減退は、その画法的特徴である素描面の「輪郭線的形体の解消」と、彩色面の「固有色的明暗の軽視」に対応している。
 そして、脱アウラ的知覚のもう一つの典型が、写真である。
 つまり、被写体の外見のみを光学的化学反応で定着させる写真では、写像はどれほど鮮明であっても表層的な凝固像に過ぎないので、観者と被写体の関係は全く断絶的で疎外的になり、観者は被写体を、見ること以外には、触れることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうこともできない。また、その見ること自体も、観者は、動かない写像にまなざしを送っても、情緒交流を伴う反応性をもってまなざしを送り返されることは絶対にない。
 すなわち、写真では、同一の時空間上に現前していない観者と被写体のアウラ的関係は完全に崩壊する。そして、観者には、脱アウラ的関係による脱アウラ的知覚が生起し、究極的に個々の写像は、共感性を欠いた単なる「形」と「色」による平面的な抽象模様に過ぎなくなる。

  7 ギュスターヴ・モローと写真

 それでは、こうした写真による脱アウラ的知覚は、近代絵画にどのような影響を与えたのだろうか?
 ここで、象徴派に対する写真による脱アウラ的知覚の影響を見てみよう。
 まず、写真の新しい近代的な脱アウラ的関係による脱アウラ的知覚は、従来の古い自然なアウラ的関係に馴染んだアウラ的知覚の持主には、極めて「ショック」である。なぜなら、写真では、被写体を永遠に所有することが可能になるが、同時に被写体とは永久に意思疎通が不可能になるからである。
 このことを、ヴァルター・ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、「写真機は瞬間に対し、言わば死後のショックを付与した」と評している(23)。
 事実、シャルル・ボードレールは「フランスの風刺画家達」(一八五七年)で、「銀板写真(ダゲレオタイプ)の残酷で驚くべき魅惑(24)」を称えている。
 なお、共に脱アウラ的関係により透明人間的解放感をもたらす大都市群集と写真を、「莫大な悦楽」と賞賛したり、「魅惑」的と賞揚したりする点で、ボードレールの窃視症的感受性は一貫している。
 また、この脱アウラ的関係の問題が一番先鋭的に現れるのが、肖像写真である。なぜなら、前述のように、写真の被写体は「まなざしを送り返す」ことがないからである。
 この問題について、ロラン・バルトは『明るい部屋』(一九八〇年)で、アンドレ・ケルテスの「肖像写真」を例に、観賞者が情動的相互交渉を行うことが不可能な写像の「まなざし」について次のように論述している。
 生まれたばかりの子犬を抱き、頬擦りしているこの貧しい少年(ケルテス、一九二八年)は、悲しみと妬みと恐れの目でカメラを見つめている。何と不憫で悲痛な黙考だろう! その実、彼は何も見ていない。彼は、内側に自らの愛と怖れを引き留めている。こうしたものが、写真の「まなざし」である(25)。
 また、マン・レイは「写真におけるリアリズム」(一九三五年)で、写真的疎外現象について次のように自問している。
 どんなに奔放であろうと、どんなに革命的で、どれほど自信満々でいることが許されていようと、写真を前にして、自分は実在の外に置かれていると感じ、一瞬不安や気後れを覚えなかった画家がいるだろうか?(26)
 さらに、アンリ・フォシヨンは『形の生命』付録の「手の礼讃」(一九三九年)で、写真的ショックについて次のように評述している。
 光の驚異、消極性の怪物である写真は、私達に友愛を懇請しつつ、その友愛を傷付ける。写真は、どこか別の惑星の芸術を思わせる(27)。
 それでもなお、ゲオルク・ジンメルが『社会学』(一九〇八年)で主張するように(28)、本来、「目」の「相互の見つめ合い」が、「人間関係の全領域における最も完全」な「個人間の結合と相互作用」をもたらすならば、「顔」はアウラ的関係の最大の源泉である。そうである以上、親アウラ的心性は、肖像写真にアウラ的関係を最も希求せざるをえない。
 これに関連して、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」で次のように強調している。
 写真では、展示価値が礼拝価値を全戦線で押し退け始める。しかし、礼拝価値は無抵抗に退却する訳ではない。それはむしろ、最後の砦に移住する。そしてその砦は、人間の顔である。肖像写真が初期の写真の中心に位置していたのは、決して偶然ではない。遠くにいる、あるいは亡くなった愛する人々の記憶の礼拝に、イメージの礼拝価値は最後の避難所を得る(29)。
 時期的に、こうした肖像写真の「残酷で驚くべき魅惑」を最も鋭敏に象徴化したのが、写真の日常化が進む一八六〇年代以降、《オイディプスとスフィンクス》(一八六四年)(図9)、《オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘》(一八六五年)(図10)、《出現(サロメとヨカナン)》(一八七四‐七六年)(図11)等、「見つめる=見つめ返す」というアウラ的関係への期待と失望を固執的に画題化した、象徴派のギュスターヴ・モローと考えられる。


図9 ギュスターヴ・モロー 《オイディプスとスフィンクス》 1864年


図10 ギュスターヴ・モロー 《オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘》 1865年


図11 ギュスターヴ・モロー 《出現(サロメとヨカナン)》 1874-76年

 特に、《出現(サロメとヨカナン)》に代表される、生首との緊密な見つめ合いというモローの特異な代名詞的画題は、写真によるショック体験の一つの詩的昇華と解釈できる。
 現実に、モローは《ヘロデの前で踊るサロメ》(一八七四年頃》(図12)や、《パーシファエ》(一八九〇年年頃)(図13)等で、写真を使用して人物や背景を描写している。
 特に、《ヘロデの前で踊るサロメ》は、生首は直接描かれていないが、モローが同じサロメ連作である《出現(サロメとヨカナン)》と正に同時期に写真を絵画制作に直接的に利用している点で注目に値する。


図12
(左) ジョセフ・ロートン撮影 《ワット・デイジの入口、セイロン》 撮影時不詳 写真 
(右) ギュスターヴ・モロー 《ヘロデの前で踊るサロメ》 1874年頃


図13
(左) 伝アンリ・リュップ撮影 《「パーシファエ」のためにポーズする女性モデル》 撮影時不詳 写真 
(右) ギュスターヴ・モロー 《パーシファエ》 1890年頃

 このモローのサロメ連作を嚆矢として、一九世紀末には生首画題が、特に象徴派を中心として芸術ジャンルを越えて汎西欧的に流行するが、その様々な要因の内の一つが写真による脱アウラ的知覚の日常生活への浸透だったと推定できる。
 事実、生首画題を描くことが多かった象徴派のフランツ・フォン・シュトックは、写真を基に多数の絵画を描いている(図14・図15)。
 また、同じく生首画題を多数描いた象徴派のオディロン・ルドンが、「写真が伝えるのは死だけである(30)」と述懐していることは非常に示唆的である。(図16・図17)


図14 フランツ・フォン・シュトック 《サロメ》 1906年


図15
(左) 伝フランツ・フォン・シュトック撮影 《赤い椅子のマリー》 1915年 写真
(右) フランツ・フォン・シュトック 《赤い椅子のマリー・フォン・シュトック》 1916年


図16 オディロン・ルドン 《オルフェウス》 1903-10年頃


図17 オディロン・ルドン 《目を閉じて》 1890年

 その意味で、目に見える世界を描く印象派と、目に見えない世界を描く象徴派という、通常同時代の対立する画派と見なされている両者が、実は共に脱アウラ的関係の造形化に明敏に反応していることは、本章の最初に見た新古典派とロマン派の間の写真利用に対する画派を超えた同時代的共通性を連想させて極めて興味深い。
 さらにこのことは、「印象派」と「象徴派」の親和性のみならず、「印象派」と、同時代にルネサンス的リアリズムの技術的補助のために写真を多用していた「アカデミズム」の間の――一般通念とは異なる――画派を超えた同時代的共通性をも想起させる。
 これに加えて、近代絵画の人物表現では、画派を超えて、様々な写真による脱アウラ的知覚の反映を観取できる。
 例えば、実際に自分で写真を大量に撮影していた、印象派のエドガー・ドガ(図18・図19)、ナビ派のピエール・ボナール(図20・図21)、象徴派のフェルナン・クノップフ(図22・図23)等に代表される、登場人物相互の隔意的な視線や、鑑賞者の登場人物への窃視的視点、また写真に日常的に親しんでいた、パリ派(エコール・ド・パリ)のアメディオ・モディリアーニ(図24)に典型的な、肖像人物における表情の探りにくい塗り潰された双眸等に、「まなざし」のアウラ的関係の欠落した写真による脱アウラ的知覚の直接的・間接的な造形的反映を指摘できる。
 現実に、ジャック・リプシッツは、妻ベルタとの肖像画(図25)をモディリアーニに描いてもらった時の様子を次のように証言している。
 翌日やって来たモディリアーニは、次から次へと非常な速度と正確さで予備的なデッサンを作った。私達の結婚写真に触発されて、彼は最終的なポーズを決めた(31)。

図18 エドガー・ドガ 《アブサントを飲む人(カフェにて)》 1876年


図19
(左) エドガー・ドガ撮影 《入浴の後》 1896年 写真 
(右) エドガー・ドガ 《入浴の後》 1896年頃


図20 ピエール・ボナール 《デザート、或いは食後》 1920年頃


図21
(左) ピエール・ボナール撮影 《浴槽のマルテ》 1908年頃 写真
(右) ピエール・ボナール 《浴槽でかがむ裸体》 1918年


図22 フェルナン・クノップフ 《私は私自身に扉を閉ざす》 1891年


図23
(上) フェルナン・クノップフ 《記憶》 1889年
(下) フェルナン・クノップフ撮影 撮影日時不詳 写真


図24
(左) 撮影者不詳 《ジャンヌ・エビュテルヌ》 撮影日時不詳 写真
(右) アメディオ・モディリアーニ 《大きな帽子のジャンヌ・エビュテルヌ》 1918年


図25 アメディオ・モディリアーニ 《ジャック・リプシッツ夫妻の肖像》 1916年




 引用は適宜、既訳のあるものは参考にして拙訳している。
(1)アリストテレス『アリストテレス全集(11)問題集』戸塚七郎訳、岩波書店、一九六八年、二三三‐二三四頁。
(2)代表的な研究として、Aaron Scharf, Art and Photography, London, 1968; revised edition, London, 1974. 部分訳、アーロン・シャーフ「印象派絵画と写真」菅啓次郎訳、『ユリイカ 増頁特集:写真――あるいは二十世紀の感受性』青土社、一九八四年四月号; Otto Stelzer, Kunst und Photographie――Kontakte,Einflusse,Wirkungen, Munchen, 1966. 邦訳、オットー・シュテルツァー『写真と芸術――接触・影響・成果』福井信雄・池田香代子訳、フィルムアート社、一九七四年; 小田茂一『絵画の「進化論」――写真の誕生と絵画の変容』青弓社、二〇〇八年等。
(3)Kirk Varnedoe, “The Artifice of Candor: Impressionism and Photography Reconsidered,” Art in America, January 1980, pp. 66-78; Peter Galassi, Before Photography: Painting and the Invention of Photography, New York: Museum of Modern Art, 1981. 邦訳、ピーター・ガラシ「写真以前――絵画と写真の発明」山梨絵美子・大日方欣一訳、『美術手帖』(645-647)、美術出版社、一九九一年一〇月‐一二月号。
(4)Jean Cocteau, “Le secret professionnel” (1922), in Œuvres complètes de Jean Cocteau, Vol. 9, Paris: Marguerat, 1950, p. 157. 邦訳、ジャン・コクトー「職業の秘密」佐藤朔訳、『ジャン・コクトー全集(Ⅳ)評論』堀口大学・佐藤朔監修、東京創元社、一九八〇年、一三五頁。
(5)Walter Benjamin, “Kleine Geschichte der Photographie” (1931), in Gesammelte Schriften, II (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, p. 371. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、一九九五年、五五八‐五五九頁。
(6)高階秀爾『世紀末芸術』紀伊国屋書店、一九六三年(新装版、一九八一年)、八一頁。
(7)伊藤俊治『〈写真と絵画〉のアルケオロジー』白水社、一九八七年、四八頁。
(8)例えば、Walter Benjamin, “Paris, die Hauptstadt des XIX. Jahrhunderts” (1935), in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, p. 49. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「パリ――十九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション(1)』三三五‐三三六頁等。
(9)Benjamin, “Kleine Geschichte der Photographie,” in Op. cit., p. 378. 邦訳、ベンヤミン「写真小史」前掲書、五七〇頁。
(10)Walter Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit [Zweite Fassung]” (1935-36), in Gesammelte Schriften, VII (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1989, p. 355. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、一九九五年、五九二頁。
(11)Walter Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire” (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, p. 646. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、一九九五年、四七〇頁。
(12)Walter Benjamin, “Zentralpark” (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, p. 670. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「セントラルパーク」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、一九九五年、三八一頁。
(13)Benjamin, “Uber einige Motive bei Baudelaire,” in Op. cit., pp. 646-647. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」前掲書、四七〇頁。
(14)Ibid., p. 646. 邦訳、同前、四七〇頁。
(15)Ibid., p. 647. 邦訳、同前、四七一頁。
(16)Walter Benjamin, “Schicksal und Charakter” (1919), in Gesammelte Schriften, II (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977; Zweite Auflage, 1989, p. 173. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「運命と性格」『ドイツ悲劇の根源(下)』浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、一九九九年、二〇八頁。
(17)Benjamin, “Uber einige Motive bei Baudelaire,” in Op. cit., p. 644. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」前掲書、四六七頁。
(18)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit,” in Op. cit., p. 353. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」前掲書、五九〇頁。
(19)Ibid., p. 353. 邦訳、同前、五八九頁。
(20)Walter Benjamin, “Das Passagen-Werk,” in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, p. 560. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(Ⅲ)』今村仁司・大貫敦子・高橋順一・塚原史・三島憲一・村岡晋一・山本尤・横張誠・與謝野文子訳、岩波書店、一九九四年、一三四頁。
(21)Georges Friedmann, Sept etudes sur l’homme et la technique, Paris, 1966. 邦訳、ジョルジュ・フリードマン『技術と人間』天野恒雄訳、サイマル出版会、一九七三年。
(22)Werner Sombart, Die Zahmung der Technik, Berlin, 1935. 邦訳、ヴェルナー・ゾンバルト「技術の馴致」『技術論』阿閉吉男訳、科学主義工業社、一九四一年。
(23)Benjamin, “Uber einige Motive bei Baudelaire,” in Op. cit., p. 630. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」前掲書、四四九頁。
(24)Charles Baudelaire, “Quelques caricaturistes français” (1857), in Œuvres complètes, II, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1976, p. 558. シャルル・ボードレール「フランスの諷刺画家たち」阿倍良雄・中山公男訳、『ボードレール全集(IV)』福永武彦編、人文書院、一九六四年、一五一頁。
(25)Roland Barthes, La chambre claire: Note sur la photographie, Paris, 1980, p. 175. 邦訳、ロラン・バルト『明るい部屋――写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房、一九八五年、一三七‐一三八頁。
(26)Man Ray, “Sur le Realisme Photographique,” Cahiers d’Art, Vol. X, 1935. 邦訳、マン・レイ「写真のレアリスムについて」永戸多喜雄訳『カメラ毎日別冊 マン・レイ』毎日新聞社、一九八四年、六四頁。
(27)Henri Focillon, Vie des formes, suivi de Eloge de la main, Paris, 1939; 5e edition, 1993, p. 119. 邦訳、アンリ・フォシーヨン『形の生命』杉本秀太郎訳、岩波書店、一九六九年、一八九頁。
(28)Georg Simmel, Soziologie: Untersuchungen uber die Formen der Vergesellschaftung, Berlin, 1908, p. 484. 邦訳、ゲオルク・ジンメル『社会学(下)』居安正訳、白水社、一九九四年、二四八‐二四九頁。
(29)Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit,” in Op. cit., p. 360. 邦訳、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」前掲書、五九九頁。
(30)Odilon Redon, A soi-meme: Journal (1867-1915), notes sur la vie, l’art et les artistes, Paris, 1961; Paris, 1979, p. 64. 邦訳、ルドン『私自身に』池辺一郎訳、みすず書房、一九八三年、七七頁。
(31)Carol Mann, Modigliani, London, 1980. キャロル・マン『アメデオ・モディリアーニ』田中久和訳、PARCO出版、一九八七年、一三五‐一三六頁より引用。

 本稿は、2010年7月18日に国立オリンピック記念青少年総合センターで開催された2010年度哲学若手研究者フォーラムで口頭発表し、2011年5月に『哲学の探究』第38号で論文発表した、「抽象絵画と写真――ヴァルター・ベンヤミンの『アウラ』概念を手掛りに」を加筆修正したものである。

第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章 第11章 第12章 第13章 第14章 第15章

Copyright (C) Tomoki Akimaru.All rights reserved.

inserted by FC2 system