第6章 近代絵画と飛行機   秋丸 知貴

 飛行機は、近代絵画にどのような影響を与えたのだろうか?
 この問題について、本章は近代技術による心性の変容という観点から考察する。

  1 飛行機について

 1903年12月17日に、アメリカのウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が、飛行機による世界初の有人動力飛行に成功する。
 この時使用されたライトフライヤー号は、出力は12馬力で、最大の飛行速度は時速約48キロメートル、飛行高度は約3メートル、飛行距離は約260メートルであった。以後、飛行機の性能は急速に向上し、飛行の速度・高度・距離はそれぞれ飛躍的に発展する。
 例えば、1906年10月22日には、サントス・デュモンが14BIS号でヨーロッパ初の有人動力飛行を成就し、1908年1月13日には、アンリ・ファルマンがヴォワザン社製複葉機でヨーロッパで初めて飛行距離1キロメートルを記録している。また、1909年7月25日には、ルイ・ブレリオがブレリオXI号で初めて約30キロメートルのドーバー海峡を横断し、1910年1月7日には、ユーベル・ラタムがアントワネットVII号で初めて飛行高度1000メートルに到達している。さらに、1913年9月9日には、モーリス・プレヴォがドゥペルデュサン・モノコック・レーサー号で初めて飛行時速200キロメートルを突破し、1927年5月20日には、チャールズ・リンドバーグがスピリット・オブ・セントルイス号で初めて約5810キロメートルのニューヨーク=パリ間の単独無着陸飛行を達成している。
 なお、飛行機による旅客輸送が世界的に本格化するのは、第一次世界大戦の軍用機が民間に放出された1919年からである。
 こうした飛行機は、ヴェルナー・ゾンバルトが「近代技術」の性格と見なす、「有機的自然の限界からの解放(1)」を人類に招く。つまり、その「機翼」と「内燃機関」は、人間を文字通り大地から離陸させる。
 例えば、ル・コルビュジエは『四つの交通路』(1939年)で、飛行機について次のように説いている。

 陸路は、人類の起源から機械時代まで、歩速、つまり時速5キロメートル弱で一定であった。水路は、初期の頃から機械時代まで、風力か人間の腕力で一定であった。鉄路により、人間の全活動に固有的と信じられていた伝統的なリズムが破壊され、未知の速度が開幕した。時速約50キロメートルから100キロメートルは、従来の10倍から20倍の速さであり、神懸り的で破滅的な速力である。空路ともなれば……私が20歳の時には、サントス・デュモン、ライト、ヴォワザンが最初の飛行を行っており、人々は言ったものだ、「神はお許しになるまい。人は地のために創られ、鳥は空のために創られたのだから」。今や、鳥達は遥かに追い越されている。飛行機は、既に時速800キロメートルに至り、間もなく1000キロメートルに達するだろう。時速1600キロメートルに到達する時、飛行機は太陽の進行速度に追い付き、恐らく時間そのものが終焉するだろう(2)。
 こうした脱自然的で近代的な飛行機は、人間に様々な新しい経験を生む。次に、そうした飛行機による心性の変容を、時空間感覚の変容、視覚の変容、自意識の変容に分け、それぞれが絵画表現にどのように反映したかを見ていこう。

 2 飛行機による時空間感覚の変容

 最初に、飛行機による時空間感覚の変容について見てみよう。
 まず、飛行機は、その脱自然的な飛行性により、地上の地形や国境を無視し、たとえ一度も飛行機に乗った経験がなくてさえ、人類の地理感覚を変革する。
 また、飛行機は、その脱自然的な高速性により、従来の固定的で介在的な時間と空間を大幅に縮小し、人類の時空間感覚を変容すると共に、光と化した速力の中で世界全体が流動的かつ抽象的に一体化する幻想を生じさせる。
 例えば、マクシミリアン・ソールは『地理学と社会学の接点』(1957年)で、飛行機による時空間感覚の変容について次のように論じている。「飛行機が発達した結果、特に非常な高度の征服の結果、もはや地球上のどんな地点も他の地点から遠く離れているとは言えない(3)」。
 事実、シュテファン・ツヴァイクは『昨日の世界』(1941年)で、ルイ・ブレリオによるドーバー海峡初横断を次のように回想している。
 ブレリオが英仏海峡を飛び越えた時、私達はウィーンで歓声を上げた。まるで、彼がオーストリアの英雄であるかのように。私達の技術や科学が時々刻々と獲得する勝利への誇りから、初めて一つのヨーロッパという連帯感情、一つのヨーロッパという国家意識が生まれつつあった。私達は、自分自身に言ったものだ。あらゆる飛行機が遊びのように容易に飛び越えるならば、国境は何と無意味なことか、関税障壁や国境監視人は何と田舎じみて人為的なことか、結束や世界協和を目に見えるかたちで熱望する私達の時代感覚に何と矛盾することか! この感情の飛翔は、飛行機の飛翔に劣らず素晴らしかった(4)。
 こうした飛行機による時空間感覚の変容は、絵画表現にも直接反映する。
 実際に、オルフェウス派(オルフィズム)のロベール・ドローネー(図1)の妻ソニアは、『私達は太陽まで行くだろう』(1978年)で、飛行機による時空間感覚の変容の芸術表現への反映について次のように回顧している。
 後に、私はロベールに飛行機の出発を描くように勧めたが、それをブレリオに捧げることを思い付いたのはロベールだった。私達の会話の翌日、彼は私に自分の描いたものを見せてくれたが、それはパリ人達が見たと思ったものとは全く別物だった。それは、より近代的で非常に爆発的だった。なぜなら、彼はそこに光の運動を描き加え、それが新しかったからである。彼は、見たままの飛行機の出発でもなく、歴史的初飛行でもなく、光の中の飛行機の飛翔を描いたのである。これこそ真の礼讃であり、空間征服への予感的感動であった(5)。

図1 ロベール・ドローネー 《ブレリオ礼讃》 1914年


 3 飛行機による視覚の変容(仰視性)

 それでは、飛行機による視覚の変容は一体どのようなものだろうか?
 最初に、飛行機を外から眺める場合を見てみよう。
 まず、飛行機は、地上の人間に、上空に飛来する機体を見上げる経験を一般化する。古来、重力に拘束されている人間にとって、天翔ける人工物は空想上の産物でしかなかった。その意味で、飛行機を仰ぎ見ることは人類の自然に対する勝利であり、全く近代的な美的体験である。
 例えば、マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』第五篇「囚われの女」(1923年)で、飛行機への仰視的視覚に関して、「美」は、「長らく地上の距離が、まだ今日のように速力によって短縮されていなかった頃」は、「多分2キロメートル先を通過する汽車の汽笛が有していたであろう」が、「今や、さらに当分の間は、2000メートル上空の飛行機の唸りの中にあり、私達を感動させる」と書いている(6)。
 その上で、その飛行機の機翼と内燃機関による脱自然的な高速推進は、飛行の自由な上昇・下降・旋回運動と相俟って、抽象的で幾何学的な飛行力線を空中に可視化する。
 事実、フランツ・カフカは1909年9月29日付『ボヘミア』紙の記事「ブレッシアでの懸賞旅行」で、飛行機への仰視的視覚について次のように記している。
 今まで衆目を集めていたのは、ルブランの飛行機だけだった。しかし、今やブレリオの飛行機が現れる。それが英仏海峡を横断したものであることは、誰も説明しなくても誰もが知っている。長い間の後、ブレリオが空中に浮かぶ。背を伸ばした上半身が両翼の上に見え、両足は深く機体の一部となっている。太陽は傾き、観客席の日除けの下で、陽光が宙に舞う両翼を照らし出している。皆心を奪われて彼を見上げ、他のことを思う余地はない。彼は小さな輪を描き、やがて私達のほとんど真上を飛ぶ。単葉の機体が揺れ、ブレリオにより制御され、さらに上昇するにつれて、全員が首を伸ばして眺める(7)。
 また、ウラジミール・ナボコフは「時間と引き潮」(1945年)で、飛行機への仰視的視覚について次のように綴っている。

 頭上では、エンジンの低い唸りが段々強くなる。〔…〕目も、顎も、肋骨も、裸の空に引き上げられる。そこに軍用機が一機、この世のものとは思えぬ速力で飛来する。機体の腹部が背部に変わる時、ゆっくりと見えるのは空が広いからに過ぎない。翼も轟音も、距離の先に解消する。見事な怪物だ。偉大な飛行機だ(8)。
 こうした飛行機への仰視的視覚は、絵画表現にも様々に反映する。
 実際に、素朴派のアンリ・ルソーが《セーヴル橋とクラマールの丘、サン=クルーとベルヴュの眺め》(1908年》(図2)で、飛行機を気球や飛行船と共に描いていることは、空中を飛行する機械への仰視体験がいかに画家の創作意欲を掻き立てたかを示している。


図2 アンリ・ルソー 《セーヴル橋とクラマールの丘、サン=クルーとベルヴュの眺め》 1908年

 また、色彩交響派(シンクロミズム)のスタントン・マクドナルド=ライトが、頭上を飛ぶ飛行機を仰視的に描いた《飛行機、橙黄色における色彩交響》(1920年)(図3)では、その飛行自体の脱自然性が抽象的に表現されている。


図3 スタントン・マクドナルド=ライト 《飛行機、橙黄色における色彩交響》 1920年

 さらに、1913年10月付の詩「コントラスト」で、「空の飛行場は今、燃え上がり、チマブーエの絵画である(9)」と詠ったブレーズ・サンドラールが、天空を舞う飛行機を仰視的に描いた《空中旅行》(1913年)(図4)では、その飛行旋回運動の超自然性が抽象的に造形されている。


図4 ブレーズ・サンドラール 《空中旅行》 1913年

 そして、フェルナン・レジェが、1937年のパリ万博の際に行った次の提案も、そうした飛翔する飛行機への超現実的な仰視体験が前提となっている。
 純白のパリ! 私は三〇万人の失業者で、あらゆる外壁を綺麗に磨くことを提案した。白く輝く都市の創造! 夕方には、エッフェル塔が、オーケストラの指揮者として、世界中で最も強力なサーチライトで、街路に、白く映りの良い家並に、輝く多彩な光を投射するだろう(何機かの飛行機も、この新しいお伽噺の光景に協力できるだろう)(10)。
 ただし、レジェの飛行機画題の代表作《空の飛行機》(1939‐52年)(図5)では、画面下辺を覆う雲の描写や画面全体の具象性の大幅な減少から、既に外からの仰視視覚のみならず、後述する内からの飛行視覚や自意識の変容の反映も窺われる。


図5 フェルナン・レジェ 《空の飛行機》 1939-52年


  4 飛行機による視覚の変容(俯瞰性)

 次に、飛行機の内から眺める場合を見てみよう。
 まず、飛行機は、その脱自然的な飛行性により、人間の視点を地上から引き離し、高所からの俯瞰を招く。元々、移動機械では、その直進的直線性と規則的高速性ゆえに「視覚の抽象化」が生じるが、飛行機では、さらにその上昇的高度性と遠隔的距離性ゆえに「地表の抽象化」が発生する。
 例えば、ラズロ・モホリ=ナギは『新しい視覚』(1947年)で、「飛行機の下方に、また飛行機を見上げることからも、新しい眺めが現れる。その本質は、俯瞰的な眺めであり、より完全な空間経験である(11)」と言っている。
 また、ジョルジュ・フリードマンは『人間と技術についての七つの研究』(1966年)で、「飛行機は、私達を高所からの眺めに慣れさせるが、そこでは私達の親しい風景、都市、街路、田園は、図形的で幾何学的な投影として見出される(12)」と述べている。
 さらに、ルネ・ユイグは『形と力』(1971年)で、「飛行機は、実際に私達に世界を眺めるための補助的な次元を与えてくれるだろう(13)」と告げている。
 一方、そうした抽象化された地表風景は、飛行機の搭乗経験の有無にかかわらず、航空写真の普及により日常化する。そして、そうした航空写真は、印刷技術の進展と相俟ってより一層日常生活に浸透する。
 例えば、フリードマンは『人間と技術についての七つの研究』で、航空写真について次のように示唆している。「航空写真は、広範な大衆をこの新しい輸送方式の豊かな手段に接触させるが、この新しい輸送方式は、より広まるにつれて、少しずつ私達の視覚地図、私達の感情、私達の空間や時間や運動の枠組さえ根本的に変容する可能性がある(14)。」
 現実に、飛行機の上昇により時間的にも空間的にも抽象される地表風景は、搭乗者に未曽有の幾何学性を開示する。そして、そうした新しい日常的現実である上空からの俯瞰風景は、芸術家に新たな造形課題を提出せずにはおかず、芸術家も感受性が鋭敏であればある程、そうした美的現象に敏感に反応せずにはいない。
 例えば、ジークフリート・ギーディオンは『空間・時間・建築』(1941年)で、飛行機の俯瞰的視覚の芸術表現への反映について次のように指摘している。
 私達はもはや、地上に縛られた動物にとっての通常の距離から対象を眺めることに限定されない。俯瞰的な眺めは、私達に世界の全く新しい外観を開示した。こうした新しい知覚方法は、そうした外観と共に、芸術家が定式化せねばならない新しい感情をもたらす(15)。
 事実、ジャン・コクトーは『アンティゴネー』(1922年)で、「飛行機からギリシャを写真撮影するのは魅力的だ。全く新しい外観が、そこに見出される。〔…〕鳥のように飛ぶと、偉大なる美は消失し、別の美が出現する。思いがけない対照、団塊、陰影、角度、起伏等が形成される(16)」と語っている。
 また、コクトーは『僕の初旅(八〇日間世界一周)』(1937年)でも、「金属扉が閉まり、機体は離陸する。〔…〕非人間化が、大いなる孤独が、無人の世界を信じさせる現象が始まる。大地が非人間化する。人間が、まず消える。続いて動物が。続いて自動車が。〔…〕大地にはもはや、家並しか、その屋根しか残っていない。〔…〕そして、直線、長方形、三角形、菱形、芝生、敷石等の人間の作品と、静脈、動脈、蛇行、曲線、螺旋、円環、渦巻、縞模様等の風と水の作品である(17)」と話している。
 さらに、ル・コルビュジエは『建築と都市計画の現状についての闡明』(1930年)で、「飛行機から、宇宙的とも言える光景を眺めた。何という瞑想への誘い、何という大地の根本的真実の召喚!」と驚き、「高度500メートルあるいは1000メートルで、時速180キロメートルあるいは200キロメートルであれば、飛行機からの視覚は、人が望みうる最も冷静で、規則的で、明確である。〔…〕全てが、図面のように明確になる」と感嘆している(18)。
 そして、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは『人間の大地』(1939年)で、「飛行機は一個の機械に違いないが、何という分析器具だろう! この器具は私達に、大地の真の相貌を見出させた。事実、道路は幾世紀にも渡って私達を欺いていたのだ。〔…〕しかし、私達の視覚は研ぎ澄まされ、私達は残酷な進歩を遂げた。飛行機と共に、私達は直線を知った(19)」と賛嘆している。
 こうした飛行機による俯瞰的視覚は、芸術表現にも様々に反映する。
 実際に、ロベール・ドローネーの《エッフェル塔とシャン・ド・マルス》(1922年)(図6)は、『イリュストラシオン』誌の航空写真記事(図7)を参照して描かれている。


図6 ロベール・ドローネー 《エッフェル塔とシャン・ド・マルス》 1922年


図7 飛行船から見たエッフェル塔 『イリュストラシオン』抜粋 1909年6月5日付

 また、マルセル・デュシャンが1915年に制作を開始した《大ガラス》は、マン・レイの撮影で1922年に『リテラテュール』誌上で写真発表された時には、《マン・レイによって飛行機から撮影された光景》(図8)と題され(後に《埃の培養》と改題)、「ここにローズ・セラヴィの領土がある/何とそれは不毛なことか。何とそれは肥沃なことか/何とそれは楽しげか。何とそれは悲しげか! (20)」と注されている。


図8 マルセル・デュシャン(マン・レイ撮影) 《埃の培養》 1920年

 さらに、デュシャン自身、1914年から1920年の間に書いた『不定法で〈ホワイト・ボックス〉』で、飛行機による俯瞰的視覚について次のように記述している。いかにも韜晦的なデュシャンらしい晦渋な文章だが、大意は「地表の抽象化」だろう。
 地理的「風景画法」――
 地図の「方法で」――しかし
 飛行機の高度の風景画家――
 次に実地調査(400キロメートル)メモ取り、つまり、例えばそれぞれの村における家々の数、あるいはよりさらにはそれぞれの家におけるルイ十五世式の椅子の数
 地理的風景画(透視図法による、あるいは透視図法によらない、地図のような平面図)ならばあらゆる種類の対象を記録し、説明を持ち、統計的外観を取れるだろう。――
 また「地質学的風景画法」もある。すなわち、土地が違えば色彩が違う――何という外観!(21)

  5 飛行機による視覚の変容(静動性)

 さらに、こうした高度上昇による地表の抽象化は、飛行機の脱自然的な高速推進と結び付くことでより複雑な視覚効果を発揮する。
 つまり、まず飛行機では、空中移動のため、自分が世界に前進しているのではなく、世界が自分に突進してくるように見える。そのため、速度の加速につれて、眼下の地表は接近するほど高速で足下を搭乗者の後方に疾走するように見える。
 その上で、高度の上昇につれて、地表の抽象化が進むと、地表の走行も減速する。そして、自分の推移を測る手掛かりが減少するので、搭乗者は、実際には高速で移動しているにもかかわらず、自分もまた静止しているように思えてくる。
 こうした飛行の不動感は、高度の下降につれて、地表が具象性を取り戻し、足下の地面が迅速に流動し始めるに従って、再び高速感を回復する。
 事実、ジャン・コクトーは『大股びらき』(1923年)で、「飛行機の中では機体の進行は認められない。機体は不動のままである(22)」と伝えている。
 また、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは『人間の大地』(1939年)で、「極めて高空から観察すれば、海の波は少しも起伏を示さず、大量の波しぶきも不動のように見える。ただ大きな白い棕櫚の葉だけが、一種の氷結に捕われたように、葉脈や斑紋を際立たせて広がっている(23)」と評している。
 さらに、サン=テグジュペリは『南方郵便機』(1929年)で、「高空では、大地は裸で死んでいるように見えていた。だが、飛行機が降下すると、大地は着衣する。森林は、再び大地にキルティングを施し、谷間や丘陵は、大地にうねりを刻み込む。大地が、呼吸する。山は、上空を飛ぶと、横たわる巨人の胸のようにほとんど自分のところまで盛り上がってくる。今や間近に、橋の下の急流のように、対象の流れが加速する。平坦な世界の氷解である。木々、家々、村々が、滑らかな地平線から分離して、自分の後方に浮流しつつ運び去られる(24)」と叙述している。
 こうした飛行機による地表の静動性も、絵画表現に多様に反映する。
 実際に、バッラ、ベネデッタ、デペーロ、ドットーリ(図9)、フィッリア、マリネッティ、プランポリーニ、ソメンツィ、タート(図10)の連名による「未来派航空絵画宣言」(1931年)は、地表の静動性の絵画表現への影響に関して次のように触れている。

 滑空し、降下し、急上昇する飛行機は、無限の空中のどこにでも吊り下げられる鋭敏な理想的観測所を創出する。それはまた、視覚=感覚の数分や数秒の価値やリズムを変化させる運動の知覚自体によりダイナミック化される。時間と空間は、不動の飛行機の下に大地が高速で疾走するという電光的事実により粉砕される(25)。

図9 ジェラルド・ドットーリ《速度の三連作、疾走》1925-27年


図10 タート 《空中風景》 1932年

 また、ピエール・フランカステルは『一九・二〇世紀における芸術と技術』(1956年)で、地表の静動性の絵画表現への反映について次のように確言している(ただし、ここで言及されているエステーヴの作品には、具象性のほぼ完全な解消の点で、単なる視覚の変容のみならず、後述する自意識の変容も観取される)。
 例えば、モーリス・エステーヴの《飛翔する人々》(図11)における、風景が見る者の下に次々と展開する感覚を形象しようとするより最近の探究さえ、ここから生じている。こうした発展が、機械文明、より具体的には現今の機械文明に浸された人間の生活の外では想像することが不可能であることは、全く明らかである。飛行機の時代に生きる人々だけが、ドガの定式からエステーヴの定式への移行を確約できる(26)。

図11 モーリス・エステーヴ 《飛翔する人々》 1947年


  6 飛行機による視覚の変容(自在性)

 生来、人間はそれぞれ直角に分かれる三半規管により、縦・横・高さを覚知している。また、人間は二足歩行で直立し、地面を水平的に移動している。通常、こうした肉体的条件から三次元的空間が認識され、垂直性がその基本構造を規定している。そして、平均的に視点の高さは地上2メートル未満で一定している。
 これに対し、飛行機は、その脱自然的な高速推進や上昇・下降・旋回運動により、搭乗者の視線を前後上下左右に移行させる。また、飛行機は、空中で体位を縦横無尽に変転させることにより、搭乗者の水平感覚を大いに麻痺させる。これらにより、搭乗者は、古来の絶対的で恒常的な三次元的空間概念を忘失し、視点の自在性を獲得する。
 例えば、ギオルギー・ケペッシュは『視覚言語』(1944年)で、「写真家にとってはもちろん、飛行家にとっては、水平線は絶えず変化し、結果的にその絶対的な有効性を喪失する。もはや、対象やその空間関係の視覚的な理解が、顕在的にしろ潜在的にしろ、一つの不変的で固定的な水平線を持つ参照枠に基づくことは必須ではなくなった(27)」と考察している。
 また、ポール・ヴィリリオは『戦争と映画』(1984年)で、「飛行機」は「一つの視覚様式、あるいは恐らく究極的視覚様式にさえなった(28)」と述べ、「もはや戦闘機の操縦士にとっては、ア・プリオリには、高さも、低さも、視覚的基軸も存在しない。特殊効果は、既に宙返り、錐揉み降下、8の字飛行等と呼ばれている〔…〕。こうして飛行中の視覚は、塹壕の兵士達が地上で強く感じるユークリッド的な中和化を免れる。飛行機は、内視鏡的なトンネルを切り開く。これこそ、望みうる最も驚くべきトポロジー的視覚の達成である(29)」と洞察している。
 事実、ジャン・コクトーは『大股びらき』(1923年)で、飛行機内からの眺めを次のように描写している。
 ヘルメットとゴーグルを被った搭乗者は、小さくなったり大きくなったりする家並や、川に区画された死んだ都市を眺める。この都市は、左右に揺れたり、壁に掛かる地図のように立ち上がったりする。突然、宙返りが、私達の頭上に地図を描いて見せる(30)。
 こうして飛行機は、その脱自然的的な速度・高度・視角の関数として、搭乗者に新しい地理景観を提示する。さらに、その地表に平行な直線的飛行は、大局的には、地球の曲面に沿った曲線的航空と化す。その結果、旧来の自然で慣習的な三次元的空間概念からの解放はより一層促進され、新しい非ユークリッド幾何学的な空間概念が普通化する。
 実際に、ラズロ・モホリ=ナギは『運動における視覚』(1946年)で、飛行機的視覚を次のように説明している。「自動車の運転手や、飛行機の操縦士は、遠く離れた無関係な目標物同士を、歩行者には未知の空間関係で把握することができる。その差異は、様々な速度により起こる知覚の変化、つまり運動における視覚(ヴィジョン・イン・モーション)によって生起する(31)」。
 また、アンドレ・シーグフリードは『現代』(1955年)で、飛行機的空間概念を次のように解説している。「かくして、航空の直線は曲線である。これは、人間が天空を飛び廻る習慣を持った時に人間に課せられた、既に半宇宙的な観念である。こうした状況では、世界は、私達が益々そう思い描いているように、もはやユークリッド的な世界ではない。この世界は、実は多分ユークリッド的よりも現実的な、ロバチェフスキー的あるいはリーマン的な幾何学の法則により多く対応している。そして私達は、平行線はありえないという観念や、同一の直角の垂線が交わるという観念に慣れなければならない。それらは、少なくとも地球上で、飛行機が私達に容易な旅程にした長い距離を考察する時に確認されることである(32)」。

  7 飛行機による自意識の変容

 その上で、飛行機は、搭乗者の自意識も変化させる。
 つまり、まず飛行機は、搭乗者に人間本来の身体能力を遥かに超える強力な飛行能力を授与すると共に、機体の発達につれて次第に搭乗者を機内に密封的に梱包する。これらにより、搭乗者は、空間移動において肉体的制約のない精神的自由を大いに享受することになる。この場合、搭乗者が、主体的・能動的な操縦士であればその力能的昂揚感は一層増加し、客体的・受動的な乗客であればその観光的遊覧感は一層増大する。
 さらに、上空風景は、元々気象的に脱物質的である上に、その広大な眺望性により距離的にも抽象化される。そして、そうした天上的で超常的な雲海風景は、飛行機がもたらす解放的意識状態をさらに一層増強する。
 事実、チャールズ・リンドバーグは『翼よ、あれがパリの灯だ』(1953年)で、ニューヨーク=パリ間初飛行時の操縦経験を次のように述懐している。「しばらくの間、私は自分の肉体から離脱したように思われた。まるで、私は一個の意識であり、空間中に、地球を超えて、天国へと拡大していくようで、時間や物質に束縛されず、人々を重苦しい人間世界の問題に縛り付けている重力から自由だった。〔…〕この本源的な意識は、その旅行に肉体を全く必要としなかった(33)」。
 こうした飛行機による自意識の変容も、絵画表現に如実に反映する。
 実際に、飛行機の上昇性能がまだそれほど高くない1910~1920年代でさえ、絶対派(シュプレマティズム)のカジミール・マレーヴィチ(図12・図13)は『キュビズム、未来派から絶対派へ――新しい絵画の写実主義』(1915年)で、「諸君の無理解も、全く当然である。いつも一頭立て馬車を乗り回している人間に、急行列車や飛行機で移動する人間の経験や印象が本当に理解できるだろうか?(34)」と問い、『無対象の世界』(1927年)で、自らの画風に対する飛行機の影響を次のように公言している。
 絶対派の付加的要素を、私は「絶対派的な直線」(ダイナミックな性格)と呼ぶ。この新しい文化に対応する環境は、技術、特に飛行技術の最新の成果を通じてもたらされた。従って、絶対派を「航空学的」と呼ぶことも可能である(35)。

図12 カジミール・マレーヴィチ 《絶対派の要素の構成(飛行感覚)》 1914-15年


図13 カジミール・マレーヴィチ 《飛翔する飛行機》 1914年

 また、航空能力が進歩し、雲上旅行も通常化し始めた、1930年代の抽象派のフランチェスカ・クプカの《雲Ⅰ》(1934年)(図14)や《雲Ⅱ》(1934年)(図15)、1960年代の抽象派のジョージア・オキーフの「雲の上の空」連作(図16・図17)では、視覚的具象性が心象的抽象性に取って代わられている分だけ、そうした飛行機による自意識の変容の反映を看取できる。


フランチェスカ・クプカ(右端)と飛行機


図14 フランチェスカ・クプカ 《雲Ⅰ》 1934年


図15 フランチェスカ・クプカ 《雲Ⅱ》 1934年


図16 ジョージア・オキーフ 《雲の上の空I》 1962-63年


図17 ジョージア・オキーフ 《白雲の上の空I》 1962年

 さらに、フォーヴィズムのアンリ・マティス(図18・図19)は、「色彩の役割と様相」(1945年)で、「私達の文明は、飛行機に一度も乗ったことのない人達にさえ、空や、広がりや、空間についての新しい理解をもたらしました。今日では、この空間の全体的な所有が要求されるに至っています(36)」と説き、『ジャズ』(1947年)で、飛行機による自意識の変容について次のように証言している。
 飛行機によるパリからロンドンへの簡単な旅行は、私達の想像力では予期しえなかった世界を開示してくれる。この新しい状況の感情は、私達を魅了すると同時に、今いるこの魅力的な環境が存在するにもかかわらず、見下ろす雲海の切れ間を通して下方に見えるあの地上で、自分達を悩ませ続けた不安や憂鬱を想起させて、私達を当惑させる。だから、私達は歩行者としての普通の状態に戻っても、もはや自分達に圧し掛かる曇天の重みを感じないだろう。なぜなら、私達はその容易に突き抜けられる壁の背後に、自分達にこれほど自由な瞬間を感じさせる無限な空間の知覚と同じく、燦々たる太陽が存在していることを思い出すだろうからである(37)。
 また、マティスは『コート・ダジュールの時』(1970年)でも、自分の制作に対する飛行機による自意識の変容の影響を次のように明言している。
 これらの鳩の連続する飛翔、それらの軌跡、それらの曲線は、まるで大きな内部空間におけるように、私の内部を滑っていきます。この切紙絵の時期に、私の手が鋏の進行を導く時、私の内部に生じる飛行感覚が、私の手をより良く調整するのにどれほど役立ったか、あなたには想像できないでしょう。これは、説明がかなり困難です。それは、飛行感覚の一種の線的ないしは図的な等価物と言えましょう(38)。

図18 アンリ・マティス 《イカロス(ジャズ)》 1943年


図19 アンリ・マティス 《鳥達》 1947年

 さらに、表現派(エクスプレッショニズム)のヴァシリー・カンディンスキー(図20・図21)は、「芸術への通路」(1937年)で、「今日では、北極上空飛行をして飛行場や鉄道駅でキッスを受け」、「成層圏飛行は、正に『古い遊び』になろうとしている」と談じ(39)、自作に対する飛行機による自意識の変容の反映を次のように断言している。
 こうした表現を「読む」ことが、人によってはどれほど困難であるか、私は分かっている――特に、それが「抽象的」な形態で語りかける時には。何人かの「鑑賞者」は、脅える。なぜなら、彼には足下の地面が引き裂かれ、自分が「宙に吊られる」ように思われるからである。特に今日では、「正常な」人間が、彼に「両足でしっかりと地面に立つべし」と要求している。残念ながら、彼はしばしばこの命令に従っている。その時、彼は恐らく忘れているのだ。今日では、彼の肉体でさえも飛行という太古の夢を叶えており、既に北極上空飛行や成層圏飛行が可能であることを。多分、彼は間もなく、「究極の」高度である地球の最後の「蓋」に到達するだろう(40)。

図20 ヴァシリー・カンディンスキー 《幾つかの円》 1926年


図21 ヴァシリー・カンディンスキー 《固定された飛翔》 1932年

 これに加えて、パブロ・ピカソを始めとする前衛画家達と交流の深かったガートルード・スタインは、『ピカソ』(1938年)で、近代絵画と飛行機の関係を次のように解釈している。
 アメリカにいた頃、私は初めてほとんど常に飛行機で旅行しました。大地を見ると、見渡す限りキュビズムの線で、画家がまだ誰も飛行機で上昇していない時に、キュビズムは既に成されていたのです。私は、眼下の大地に、ピカソの入り組んだ線を見ましたが、それは行きつ戻りつし、自らを発展しては破壊する線でした。また、ブラックの単純な分解や、マッソンのさ迷う線も見ました(41)。
 そして、オットー・シュテルツァーは『写真と芸術』(1966年)で、抽象絵画と飛行機の関連を次のように要約している。
 1880年代の末に、ナダールの息子や他の数名が、パリの完全に垂直な俯瞰に達する。しかし、こうした初歩の段階から抜け出すためには、飛行機という手段と第一次世界大戦という契機が必要だった。その時、当然軍事偵察の目的で、1800メートル以上の高度からの撮影が成功する。これは――少なくとも特定の地形の場合には――次の段階に到達するのに十分な高さだった。つまり、大地は「非具象的」になったのである。測量士の訓練された目だけが、図面のように見える線や、微かな浮彫状の斑紋形態や、その他の構造を「解釈」できたに過ぎない。通常の観察者は、その数年前にカンディンスキーやキュビスト達が創造した絵画に全く似ていないとは絶対に言えない、「抽象的」な映像に直面したのである(42)。
 以上のように、飛行機による時空間感覚・視覚・自意識の変容、つまり心性の変容は、近代絵画の根本問題である抽象主義と詳細に呼応している。そして、その世界観の革新、視覚の仰視性・俯瞰性・静動性・自在性、心身的浮遊感等の反映は、近代絵画の諸流派の様々な抽象的造形表現に具現的にも象徴的にも読取できる。
 もちろん、抽象絵画の成立には飛行機だけが影響していると限定する訳ではない。なぜなら構造上、形と色からなる絵画造形は、意味の多義性を内包しており、単一の要因だけでその創造や鑑賞の多様性全てを包括することは本質的に不可能だからである。
 しかし、時代的一致においても、画家達自身の証言においても、飛行機がもたらす様々な脱自然的な抽象的心性が、1910年代以降の脱自然主義的な純粋抽象絵画を準備し、生成し、推進した可能性は、決して否定することができない。そうであるならば、そうした抽象絵画は、たとえ当初どれだけ無理解に攻撃されても、飛行機による心性の変容が定着するにつれて、必ず人々にその絶対的現実感を賞揚されるだろう。




 引用は全て、既訳のあるものは参考にして拙訳している。
(1)Werner Sombart, Die Zähmung der Technik, Berlin, 1935, p. 10. W・ゾンバルト「技術の馴致」『技術論』阿閉吉男訳、科学主義工業社、1941年、14頁。
(2)Le Corbusier, Sur les 4 Routes, Paris, 1941; English translated by Dorothy Todd, The Four Routes, London, 1947, p. 29. ル・コルビュジエ『四つの交通路』井田安弘訳、SD選書、1978年、34頁。
(3)Max. Sorre, Rencontres de la géographie et de la sociologie, Paris, 1957, p. 193. マクシミリアン・ソール『地理学と社会学の接点』松田信訳、大明堂、1968年、167頁。
(4)Stefan Zweig, Die Welt von Gestern: Erinnerungen eines Europäers, Stockholm, 1944; Berlin, 1952, p. 183. シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界(Ⅰ)』原田義人訳、みすず書房、1999年、290頁。
(5)Sonia Delaunay, Nous irons jusqu’au soleil, Paris, 1978, p. 38. 穴沢一夫「ロベール・ドローネーの芸術と芸術論」『ドローネー展図録』東京国立近代美術館、1979年に引用。
(6)Marcel Proust, “La Prisonnière (Sodome et Gomorrhe III),” in À la recherche du temps perdu, VI, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1924, p. 275. マルセル・プルースト「第五篇 囚われの女」『失われた時をもとめて(8)』井上究一郎訳、ちくま文庫、1993年、717-718頁。
(7)Franz Kafka, “Die Aeroplane in Brescia” (1909), in Drucke zu Lebzeiten, Frankfurt am Main, 1994, pp. 408-409. フランツ・カフカ「ブレッシアでの懸賞飛行」『カフカ・セレクション(Ⅱ)』平野嘉彦編、柴田翔訳、ちくま文庫、2008年、292頁。
(8)Vladimir Nabokov, “Time and Ebb” (1945), in Nabokov’s Dozen: Thirteen Stories, London, 1958; Penguin edition, 1960, p. 132. ウラジミール・ナボコフ「時間と引き潮」『ナボコフの一ダース』中西秀男訳、ちくま文庫、1991年、214-215頁。
(9)Blaise Cendrars, “Dix-neuf poems élastiques” (1919), in Œuvres complètes, I, Paris: Le Club français du livre, 1968, p. 61.「弾力的な詩一九」『サンドラルス抄』飯島正訳、関井光男監修、ゆまに書房、一九九四年、6頁。
(10)Fernand Léger, “On Monumentality and Colour” (1943), in Siegfried Giedion, Architecture, You and Me: The Diary of Development, Harvard University Press, 1958, pp. 44-45. フェルナン・レジェ「記念性と色彩」、ギーディオン『現代建築の発展』生田勉・樋口清訳、みすず書房、1961年、53頁。
(11)László Moholy-Nagy, The New Vision and Abstract of an Artist, New York, 1947; New York, 1949, p. 63. L・モホリ=ナギ『ザ ニュー ヴィジョン』大森忠行訳、ダヴィッド社、1967年、138-139頁。
(12)Georges Friedmann, Sept études sur l’homme et la technique, Paris, 1966, p. 60. ジョルジュ・フリードマン『技術と人間』天野恒雄訳、サイマル出版会、1973年、57頁。
(13)René Huyghe, Formes et forces: de l’atome à Rembrandt, Paris, 1971, p. 48. ルネ・ユイグ『かたちと力――原子からレンブラントへ』西野嘉章・寺田光德訳、潮出版社、1988年、71頁。
(14)Friedmann, Op. cit., p. 60. フリードマン、前掲書、57頁。
(15)Sigfried Giedion, Space, Time and Architecture: The Growth of a New Tradition, Harvard University Press, 1941; 14th printing, 2002, p. 432. ジークフリート・ギーディオン『空間・時間・建築(2)』太田實訳、丸善、1955年、462頁。
(16)Jean Cocteau, “Antigone” (1922), in Œuvres complètes de Jean Cocteau, V, Genève: Marguerat, 1948, p. 139. ジャン・コクトー「アンティゴネー」三好郁朗訳、『ジャン・コクトー全集(Ⅶ)戯曲』堀口大学・佐藤朔監修、東京創元社、1983年、88頁。
(17)Jean Cocteau, “Mon premier voyage” (1937), in Œuvres complètes de Jean Cocteau, XI, Genève: Marguerat, 1951, p. 342. ジャン・コクトー「僕の初旅・世界一周」堀口大学訳、『ジャン・コクトー全集(Ⅴ)評論』堀口大学・佐藤朔監修、東京創元社、1981年、285頁。
(18)Le Corbusier, Précisions sur un état présent de l’architecture et de l’urbanisme, Paris, 1930, p. 8. ル・コルビュジエ『プレシジョン(上)』井田安弘・芝優子訳、鹿島出版会、1984年、19頁。
(19)Antoine de Saint-Exupéry, “Terre des hommes” (1939), in Œuvres complètes, I, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1994, pp. 200-201. サン=テグジュペリ『人間の大地』山崎庸一郎訳、みすず書房、2000年、50-51頁。
(20)Exh. cat., Man Ray: Photographe, Paris: Philippe Sers, 1981, p. 16. 『カメラ毎日別冊 マン・レイ』毎日新聞社、1984年、15頁。
(21)Marcel Duchamp, Duchamp du signe, Paris, 1975; Paris, 2008, p. 115. マルセル・デュシャン『マルセル・デュシャン全著作』ミシェル・サヌイエ編、北山研二訳、未知谷、2001年、160-161頁。
(22)Jean Cocteau, “Le Grand écart” (1923), in Œuvres complètes de Jean Cocteau, I, Genève: Marguerat, 1946, p. 90. ジャン・コクトー「大股びらき」澁澤龍彦訳、『ジャン・コクトー全集(Ⅲ)小説』堀口大学・佐藤朔監修、東京創元社、1980年、262頁。
(23)Antoine de Saint-Exupéry, “Terre des homes,” p. 185. サン=テグジュペリ『人間の大地』25頁。
(24)Antoine de Saint-Exupéry, “Courrier Sud” (1929), in Œuvres complètes, I, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1994, p. 45. サン=テグジュペリ『南方郵便機』山崎庸一郎訳、みすず書房、2000年、22頁。
(25)Balla, Benedetta, Depero, Dottori, Fillia, Marinetti, Prampolini, Somenzi, Tato, “L’Aeropittura Futurista” (1931), 『未来派:1909-1944』展図録、エンリコ・クリスポルティ/井関正昭構成・監修、諸川春樹翻訳監修、鵜沢隆・浦上雅司・片桐頼継・吉城寺尚子・古賀浩・堤康徳訳、東京新聞、1992年、170頁(邦訳171頁)。
(26)Pierre Francastel, Art et technique aux XIXe-XXe siècles, Paris, 1956, p. 174. ピエール・フランカステル『近代芸術と技術』近藤昭訳、平凡社、1971年、247-248頁。
(27)Gyorgy Kepes, Language of Vision, Cichago, 1944; New York, 1995, p. 75. ギオルギー・ケペッシュ『視覚言語』グラフィック社編集部訳、グラフィック社、1973年、66頁。
(28)Paul Virilio, Guerre et cinéma I: logistique de la perception, Paris, 1984; Paris, 1991, p. 22. ポール・ヴィリリオ『戦争と映画――知覚の兵站術』石井直志・千葉文夫訳、平凡社ライブラリー、1999年、52頁。
(29)Ibid, p. 24. 同前、55頁。
(30)Cocteau, “Le Grand écart,” p. 90. コクトー「大股びらき」262頁。
(31)László Moholy-Nagy, Vision in Motion, Chicago, 1946; 7th Printing, 1965, p. 245. L・モホイ=ナジ「ヴィジョン・イン・モーション(17)」『SD』阿部公正訳、鹿島出版会、1982年11月号、78頁。
(32)André Siegfried, Aspects du XXe Siècle, Paris, 1955, p. 188. アンドレ・シーグフリード『現代――二十世紀文明の方向』杉捷夫訳、紀伊国屋書店、1956年、177-178頁。
(33)Charles A. Lindbergh, The Spirit of St. Louis, New York, 1953, pp. 352-353.
(34)Kazimir Malevich, “From Cubism and Futurism to Suprematism: The New Painterly Realism” (1915), in John E. Bowlt (ed. and trans.), Russian Art of the Avant-Garde: Theory and Criticism 1902-1934, New York, 1976; Revised and enlarged edition, New York, 1988, p. 125. カジミール・マレーヴィチ「キュービズム、未来主義からシュプレマティズムへ――新しい絵画のリアリズム」、J・E・ボウルト編『ロシア・アヴァンギャルド芸術』川端香男里・望月哲男・西中村浩訳、岩波書店、1988年、162頁。
(35)Kasmir Malewitsch, Die gegenstandslose Welt, München, 1927, p. 59. カジミール・マレーヴィチ『無対象の世界』五十殿利治訳、中央公論美術出版、1992年、59頁。
(36)Henri Matisse, Écrits et propos sur l’art, Paris, 1972, p. 201. マティス『画家のノート』二見史郎訳、みすず書房、1978年、235頁。
(37)Ibid., p. 236. 同前、279-280頁。
(38)Ibid., pp. 250-251. 同前、298頁。
(39)Kandinsky, Essays über Kunst und Künstler, Stuttgart, 1955; Bern, 1973, p. 203. カンディンスキー『芸術と芸術家』西田秀穂他訳、美術出版社、2000年、228頁。
(40)Ibid., p. 209. 同前、235-236頁。
(41)Gertrude Stein, “Picasso” (1938), in Writings 1932-1946, New York, 1998, p. 533. ガートルード・スタイン「ピカソ」『ピカソその他』本間満男・金関寿夫訳、書肆山田、1984年、97頁。
(42)Otto Stelzer, Kunst und Photographie――Kontakte, Einflüsse, Wirkungen, München, 1966, pp. 63-64. オットー・シュテルツァー『写真と芸術』福井信雄・池田香代子訳、フィルムアート社、1974年、75頁。

 本稿は、2010年8月10日にウィングス京都で開催された形の文化会第52回フォーラムで口頭発表し、2011年12月に『形の科学会誌』第26巻第2号で論文発表した、「近代絵画と飛行機――近代技術による心性の変容」を加筆修正したものである。

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