第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――一九世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に  秋丸知貴

  はじめに


 私は、セザンヌをよく知っている! セザンヌは、私の唯一のかけがえのない先生だ! 私がセザンヌの絵画を何枚も見てきたことを、考えてみると良い……。私は、何年もセザンヌの絵画を研究してきた……。セザンヌ! 彼は、私達全員にとって父のような存在だった。セザンヌこそが、私達を守ってくれたのだ……(1)。

 このパブロ・ピカソ(Pablo Picasso: 一八八一‐一九七三年)の賛辞等により、ポール・セザンヌは「近代絵画の父」と広く称されることになる。
 セザンヌが、ピカソが牽引したキュビズムはもちろん、後続の二〇世紀絵画に多大な影響を与えたことはよく知られている。
 多分、セザンヌを西洋近代美術史における最も重要な巨匠の一人として認めない人間はいないだろう。
 それでは、セザンヌは一体何を描いたのだろうか?

  1 画家としての出発

 ポール・セザンヌ(Paul Cezanne: 一八三九‐一九〇六年)は、一八三九年一月一九日にエクス・アン・プロヴァンスで生まれ、その生涯にエクスとパリを二〇回以上も往復した後、一九〇六年一〇月二三日に故郷で没したフランス人画家である(図5・図6)。


(左)図5 撮影者不詳 22歳頃のポール・セザンヌ 1861年
(右)図6 ポール・セザンヌ 《自画像》 1862-64年 V. 18 RW. 72 油彩 画布 44×37cm

 エクス・アン・プロヴァンスは、首都パリから約六四〇キロメートル離れた、地中海にほど近い自然豊かな南仏プロヴァンス地方の小都市である。エクスは、一五世紀末までは神聖ローマ帝国統治下の独立国プロヴァンス伯爵領の首都であり、一四〇九年には早くも大学が設立されるなど、古くから文化・学問の街として栄えていた。
 しかし、貴族の多い土地柄で保守的性格が強いため、最盛期は一七世紀から一八世紀にかけてであり、一七八九年のフランス革命後は長く停滞が続いていた。一九世紀に入ると、急速に発達する大都市パリに対し、徐々にエクスは時代に取り残された地方都市の代表と見なされるようになっていた。
 一八四二年に、当時の最新技術である蒸気鉄道の建設を法的に支援する「鉄道憲章」が制定される。これにより、フランス各地では鉄道路線の敷設が進む。しかし、やはり当初エクスは蒸気鉄道の導入に消極的だったため、より導入に積極的だった南方約三〇キロメートルにあるマルセイユに商工業の面で大きく出遅れることになる。
 しかし、保守的なエクスも徐々に時代の趨勢を受け入れるようになり、一八五六年に最初の鉄道路線を開通させた頃からは、次第に緩やかに発展し始める。セザンヌが生まれ育ったのは、正にそうした牧歌的でありつつも近代化に踏み出し始めた、一九世紀半ばの古都エクスであった。
 このエクスで、イタリアのチェゼーナ(Cesena)出身の祖先を持つ平民出のセザンヌ家が頭角を現したのは、ポールの父ルイ=オーギュストの代である。
 ルイ=オーギュスト・セザンヌ(Louis-Auguste Cezanne: 一七九八‐一八八六年)は、エクスで帽子の製造販売業から叩き上げ、金貸業で成功し、セザンヌが生まれた九年後の一八四八年には地元唯一の銀行の経営者にまで一代で成り上がった有能な実業家であった。つまり、ルイ=オーギュストは、パリに続いてフランス各地に登場し始めた当時の典型的な新興中産階級の一人だったのである(図7)。そのため、当然ルイ=オーギュストは、一人息子ポールが自らの後継者として実業界へ進むことを強く望んでいた。


図7 ポール・セザンヌ 《ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像、『レヴェヌマン』紙を読む画家の父》 1866年秋 V. 91 R. 101 油彩 画布 200×120cm

 しかし、未来の「近代絵画の父」ポール・セザンヌの関心は、商売ではなく芸術にあった。
 例えば、セザンヌは既に五歳頃には木炭の切れ端で部屋の壁に落書をしたり、地元のサン・ジョゼフ小学校に通う頃には絵入週刊誌『マガザン・ピトレスク』の挿絵に水彩絵具で彩色をしたりするなど、早くから絵画に興味を示していた。また、セザンヌに愛情を注いでいた母親も芸術に理解があり、息子が画家になることを夢見てさえいた。さらに、セザンヌの芸術家志望に決定的な影響を与えたのが、一八五二年の一三歳の時に地元の名門ブルボン中学校で知り合った、後にフランスを代表する作家となる一歳年下のエミール・ゾラとの交友である。
 エミール・ゾラ(Emile Zola: 一八四〇‐一九〇二年)は、一八四〇年四月二日にパリで生まれ、土木技師の父フランソワ・ゾラ(Francois Zola: 一七九六‐一八四七年)がエクス・アン・プロヴァンスでダム建設に携わるのに伴い、一八四三年の三歳の時にエクスに移る。ところが、一八四七年の七歳の時に、父が負債を残して急死したことでゾラは貧しい母子家庭となり、一八五二年の一二歳の時に寄宿舎生活を始めたブルボン中学校では、貧乏な余所者として他生徒達から悪質ないじめを受けていた。
 そのゾラを校内で庇ったのが、同じ寄宿生だったセザンヌであり、二人には厚い友情が芽生えることになる。この二人に、セザンヌの二歳年下で、後に天文学者で理工科大学校(エコール・ポリテクニーク)教授となるもう一人の学友ジャン=バティスタン・バイユが加わり、その仲の良さから「分かたれざるもの(アンセパラーブル)(2)」と渾名される三人は共に自然や芸術を愛し、多感な一〇代半ばを自然散策や詩作・絵画制作に夢中になって過ごした。
 一八五八年二月に、一七歳のゾラは家庭の経済的事情でパリへ上京する。以後、セザンヌとゾラの間では盛んに文通が交わされることになる。その内容は、友情を確認し合う謎かけの判じ絵や、古典文学やアルフレッド・ド・ミュッセ等のロマン派文学に影響を受けた、抒情的で理想主義的傾向の強い詩作が多かった。
 ゾラはパリのサン・ルイ高等中学校で勉学を続け、当初は理科の大学入学資格試験(バカロレア)合格を目指していた。しかし、ゾラは二度の不合格により進学を断念し、働きながら文学を志すようになる。
 その決意を、ゾラは一八六〇年一月五日付ポール・セザンヌ宛書簡で次のように表明している。
 君も知る通り、僕には財産が全くない。そして最近、二〇歳にもなって家族の世話になっていることを心苦しく思っている。そこで、何かをして自分の食べるパンは自分で稼ぐことを決心した。僕は、二週間位の内に港湾の事務職に就こうと考えている。〔…〕しかし、文学を諦める気は全くない。〔…〕自宅の入口で事務所の埃を払い落した後は、僕は再び作りかけの詩を続けたり、書きかけの手紙を君に書いたりするつもりだ(3)。
 当時、パリの寂しい極貧生活の中で深い疎外感を味わっていたゾラの心の支えが、エクスにいるセザンヌ達との友情であったことは、ゾラの一八六〇年二月九日付ポール・セザンヌ宛書簡から分かる。
 親愛なる友よ。数日来、僕は悲しい。とても悲しい。それで、気を紛らわせるために君に手紙を書く。僕は失望し、筆も進まず、歩くことさえできない。将来を考えると、余りにも、余りにも暗く、恐怖にたじろいでしまう。財産も職業もなく、あるのは落胆だけ。頼れる者は誰もいない、女もいない、友人も身近にはいない。どこもかしこも、冷淡か軽蔑ばかりだ。〔…〕それでも、時々僕が陽気になるのは、君とバイユを思う時だ。大勢の中から僕を理解してくれる君達二人の心を見出せたことを、僕は幸福に思っている。僕達はどこにいようとも同じ気持ちを持ち続けるだろうと、僕は自分に言い聞かせる。そうすれば、心が休まるのだ(4)。
 一方、セザンヌは資産家の父親の庇護の下で裕福な生活を送りつつ、一八五八年一一月一二日に、一九歳で文科の大学入学資格試験に合格し、父親の指示に従い地元のエクス大学の法学部に進学する。しかし、既に絵画への情熱が高まり、前年からエクス市立素描学校で校長の画家ジョゼフ・ジベール(Joseph Gibert: 一八〇八‐一八八四年)に指導を受けるなどしていたセザンヌは、法律の勉強には全く身が入らず、次第に画業への憧れを強めていく。
 例えば、一八五九年に、父ルイ=オーギュストがルイ一四世時代にプロヴァンス州総督の別荘であった三階建ての邸宅ジャ・ド・ブッファンを購入すると(5)、その翌一八六〇年から、セザンヌはその一階大広間の装飾として《四季》(一八六〇‐六一年)(図8)と題する四枚の大壁画に取り組んでいる。


図8 ポール・セザンヌ 《四季(秋)》 1860‐61年 V. 6 R. 7 油彩 画布(壁画からの移し替え) 314×104cm

 この時、セザンヌは当時の新古典派の巨匠ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres: 一七八〇‐一八六七年)を騙った偽の署名を入れており、不遜と卑下の入り混じった奇妙な自負を示している。
 やがて、セザンヌは法学を放棄し、画業に専念することを望み始める。当時、画家としての成功は、パリへ上京し、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学し、サロンに入選することだけがほぼ唯一の道であった。セザンヌも、その伝統的な画家の王道を目指し、パリ上京を強く希望するようになる。
 しかし、当然ルイ=オーギュストはそれに猛反対する。その事情を、ゾラは一八六一年四月二二日付ジャン=バティスタン・バイユ宛書簡で次のように説明している。
 問題は、次のようなことだと思われる。セザンヌ氏は、自分が抱いてきた計画を息子に反故にされたと感じた。未来の銀行家〔ポール〕は、自らが画家であることに気付き、背に鷲の翼を感じて巣離れを望む。セザンヌ氏は、この変貌と自由への渇望にすっかり驚くが、銀行よりも絵画を好み、埃っぽい事務所よりも大空の空気を好むということが信じられない(6)。
 この時、セザンヌが画家の道に進むことを誰よりも応援したのがゾラであった。例えば、ゾラは一八六〇年三月二五日付ポール・セザンヌ宛書簡で、セザンヌを次のように励ましている。「君はできる限り熱心に法律を勉強して、お父さんを満足させねばならない。しかしまた、きちんとしっかりと素描(デッサン)に努めねばならない――嘴と鉤爪で(7)」。
 この時、ゾラがただ単に寂しさからではなく、本当にセザンヌの芸術的才能を高く評価していたことは、同じ書簡の次の文章から窺える。「僕は、君の内に、大いなる心の善良さと大いなる想像力を認める。その二つ大きな特質の前に、僕は頭を下げる。これで十分だ。僕は君を認識し、理解したのだ(8)」。
 また、ゾラは一八六〇年八月一日付ポール・セザンヌ宛書簡でも、セザンヌの芸術的才能を讃えている。「僕の詩は、多分君の詩より整っている。しかし確かに、君の詩の方がより詩的でより真実だ。君は心で書くが、僕は頭で書く。君は言おうとすることをしっかり考えるが、僕のはしばしば遊びか綺麗な虚言でしかない(9)」。
 さらに、ゾラは一八六〇年四月一六日付ポール・セザンヌ宛書簡でも、セザンヌが画家として芸術的才能を生かすことを勧めている。
 君の手紙の別の言葉も、僕の心を痛ませた。「僕は絵画が好きだ、成功はしないだろうが……」云々のところだ。君が成功しないだって! それは、君が自分を見誤っているのだ。既に前にも言ったが、芸術家の内部には二人の人間がいる。つまり、詩人と職人だ。詩人として生まれ、後に職人となるのだ。君には天性の閃きがあり、それは努力では得られないものだ。その君が不平を言うとは! 君が成功するためには、後は指を使い、職人になりさえすれば良いのだ(10)。
 こうしたゾラの説得は、やがてルイ=オーギュストの知るところとなる。恐らくルイ=オーギュストは、貧しいゾラが金銭的な下心から息子に接近していると疑ったはずである。しかし、現存書簡からは、ゾラがセザンヌに金品を無心した形跡は見られない。その意味でも、ゾラはセザンヌを純粋に芸術上の同志として認めていたと言える。
 当時、ゾラにとって真に芸術家と呼べる同志がセザンヌしかいなかったことは、共通の親友バイユでさえ世俗的だから自分達とは異なると語る、一八六〇年五月五日付ポール・セザンヌ宛書簡から推察される。「バイユは、僕達と同じではない。彼の頭蓋骨は、僕達と同じ鋳型で作られてはいないのだ(11)」。
 ゾラは、セザンヌと一緒にパリで成功することを望み、同じ手紙で続けてセザンヌのパリ上京を次のように勇気付けている。
 君は二通の手紙で、僕達の再会を遠い希望として書いている。「僕は法律の勉強が終わったら、多分自由に好きなことをやれるだろう。多分、君に会いに行くこともできるだろう」。神よ、どうかこれが束の間の喜びでないように。君のお父さんが、君の本当の利益に目を開きますように。恐らく、君のお父さんの目には、僕は軽率、狂人、君を理想の夢や愛に引き留めようとする悪友なのだろう。恐らく、もし僕の手紙を読めば、君のお父さんは僕を厳しく非難するだろう。しかし、たとえ君のお父さんの評価を失うことになっても、僕は君に言うのと同様に、君のお父さんの前で声高にこう言うだろう。「長い間、私はあなたの御子息の将来と幸福を熟考してきました。数多くの理由のために説明すると余りにも長くなり過ぎますが、あなたは御子息をその性向の導く方向へ進ませるべきであると、私は信じます」(12)。
 しかし、決断力に乏しいセザンヌは、ゾラほどには芸術に専心する勇気を持てない。セザンヌは、人一倍自尊心が強い反面、急に極度に気弱になる不安定な性格でもあった。芸術家としての自己像を心の拠り所としている分、その自己像が冷厳な現実に傷付けられるのを恐れていたのかもしれない。
 そうした中途半端なセザンヌを、ゾラは一八六〇年六月二五日付ポール・セザンヌ宛書簡で次のように激励している。
 親愛なる旧友。この前の手紙で、君は失望しているように思われた。君は、絵筆を天井に放り投げるとばかり言う。君を取り巻く孤独の中で、君は憂い、嘆いている。――これは僕達全員の病気なのではないか、この恐るべき憂愁は? 僕達の世紀の災厄なのではないか? そして落胆は、僕達の喉を締め付ける憂鬱の結果の一つなのではないか? 君が言うように、もし君の傍にいれば、僕は君を慰め励ますだろう。僕は君に言うだろう。僕達は、もう子供ではないのだ、未来が僕達を求めており、自分に課した仕事を前に尻込みするのは臆病だと。〔…〕だから、勇気を出して再び新しい絵筆を取り、君の想像力を発揮したまえ。僕は、君を信じている。もし僕が君を悪へ押しやっているのであれば、その悪は僕の頭上に落ちんことを!(13)
 それでもなお、煮え切らずに逡巡するセザンヌを、ゾラは一八六〇年七月付ポール・セザンヌ宛書簡で次のように叱咤している。
 親愛なるポール。最後にもう一度、僕が思うことを率直にはっきりと説明させて欲しい。僕達の問題が全て悪化しているように思われて、僕はとても気持ちが悪いのだ。――絵画は、君にとって退屈な日にちょっと思い付いた気紛れでしかないのか? 暇つぶし、話の種、法律を勉強しないための口実でしかないのか? もしそうなら、君の行動は理解できる。君は物事を徹底的に突き詰めず、家族に新しい心配事を作らねば良い。しかし、もし絵画が君の天職だとしたら――僕は常にそう思ってきたのだが――もし君が法律の勉強の後でも絵画をうまくやれると感じているのであれば、その場合、君は僕にとっては謎だ、スフィンクスだ、何とも得体の知れない不可解なものだ。二つに、一つだ。もし画家になりたくないのなら、君は見事に目的を達している。しかし、もし画家になりたいのなら、僕にはもう全く理解できない。君の手紙は、ある時は僕に大いに希望を与え、ある時はそれ以上に失望させる。この前の手紙がそうだ。君は上手く実現できるはずの自分の夢に、ほとんど別れを告げているように見える。この手紙で、僕が理解しようとして出来なかったのは次の言葉だ。「僕は意味のない話をすることになるだろう。なぜなら、僕の行動と言葉は矛盾しているから」。僕はこの言葉の意味について色々な仮説を立ててみたが、どれにも満足できなかった。それでは、君の行動とは何なのか? 恐らく、逃げているということなのだ。だって、そうだろう? 君は強制されて嫌々法律を勉強しているが、本当は画家になるためにパリへ行かせて欲しいとお父さんにお願いしようとしている。その願望と君の行動には、何の矛盾も見られない。法律の勉強を怠けて美術館へ通っているということは、絵画こそ君が受け入れられる唯一の仕事なのだ。だから、君の願望と行動は見事に一致していると僕は思う。君は、僕に言って欲しいのだろうか?――どうか怒らないで欲しい――君は、優柔不断なのだ(14)。
 その上で、ゾラは一八六一年三月三日付ポール・セザンヌ宛書簡では、再び親身になってセザンヌの上京の相談に乗っている。
 君は、午前六時から午前一一時まで、画室で生きたモデルを写生する。昼食の後、正午から午後四時まで、ルーヴルやリュクサンブールで気に入った傑作を模写する。こうして日に九時間も勉強すれば十分だし、このやり方でやがて上達するはずだ。しかも、夜は全く自由で僕達の思い通りに使える上に、それが勉強の邪魔になることもない。そして、僕達は日曜日には羽を広げ、パリの郊外へ行こう。それらの場所は、とても魅力的なのだ(15)。
 現実家のルイ=オーギュストは、画家になるという息子の夢物語に業を煮やし、専門家のジベールに相談する。
 ジベールは、セザンヌのパリ上京に否定的だった。当時の一点透視遠近法に基づくルネサンス的リアリズムを重視する一般的な美的基準では、《自画像》(図6)や《四季》(図8)が典型的に示すセザンヌの素描(デッサン)力の低さでは、画家として成功の見込み無しと判定されても仕方がなかったであろう。
 しかし、結局ルイ=オーギュストは息子の上京を認める。実際家のルイ=オーギュストにしてみれば、息子にやるだけやらせて失敗させた方が諦めも早いと考えたのではなかっただろうか?
 ともかく、ついにセザンヌは二二歳の春、一八六一年四月に画家を志してパリへ初上京する。ゾラが一八六一年四月二二日付ジャン=バティスタン・バイユ宛書簡で伝える、パリでのセザンヌとゾラの再会は感動的である。
 ポールに会った(ジェ・ヴュ・ポール)!! ポールに会ったのだ。分かるだろう君、この三つの言葉のメロディーが。――ポールは、今朝日曜に来て、階段で何度か僕の名前を呼んだ。僕はまだ寝惚けていた。僕は喜びに震えながら扉を開け、僕達は熱狂的に抱き合った(16)。
 上京したセザンヌは、ゾラとルーヴル美術館やサロンを見て回っている。また、セザンヌは自由で革新的な青年画家達が集まるアカデミー・シュイスに入塾している。
 このアカデミー・シュイスは、特別な教師を置かず、月謝さえ払えば誰でも自由にモデルを写生できることを特色としていた。ここでセザンヌは、カミーユ・ピサロ、アルマン・ギヨマン、アントワーヌ・ギュメ、フランシスコ・オレル等と知り合っている。
 しかし、セザンヌはパリでも自分の弱気を払拭できずにいた。徐々に、セザンヌは臆病風に吹かれ出す。
 例えば、セザンヌは一八六一年六月四日付ジョゼフ・ユオ宛書簡で、次のように心情を吐露している。「僕は、エクスを離れれば僕に付きまとう憂鬱を遥か遠くへ置き去りにできると信じていた。しかし、ただ場所が変わっただけのことで、憂鬱は僕に付きまとっている(17)」。
 次第に、セザンヌは情緒不安定になっていく。当時のセザンヌの様子を一番身近で観察していたゾラは、一八六一年六月一〇日付ジャン=バティスタン・バイユ宛書簡で次のように報告している。「ポールは、常に中学校の頃と同じく飛びきり放縦だ。ポールがその個性を少しも失っていないことを君に証明するには、一言だけで十分だろう。つまり、ポールはこちらに着くや否や、もうエクスへ帰ると言うのだ。この旅行のために三年間も戦いながら、それを塵のように気にもかけないとは!(18)」。
 また、ゾラは同じ書簡で、セザンヌの性格を次のように考察している。
 セザンヌに何かを証明しようとすることは、ノートル・ダムの塔にカリドールを踊らせようと説得するようなものだ。多分、彼はイエスと言うだろうが一歩も動かないだろう。歳月は、彼の頑固さに輪をかけたようだ。〔…〕彼は一徹者で、強情で融通が利かず、何者も彼を曲げたり、彼から一つの譲歩を引き出したりすることはできない。彼は、自分の考えていることを議論しようとさえしない。彼は、議論を恐れる。なぜなら、第一に話すことは疲れるからで、第二にもし相手が正しければ自分の意見を変えねばならないからだ。〔…〕しかし要するに、彼は世界中で最も善良な少年なのだ(19)。
 さらに、ゾラは同じ書簡で、セザンヌとの付き合い方について次のように方針を語っている。
 僕は、歳月が彼に幾らか柔軟さをもたらしているだろうと期待していた。しかし、僕には彼が別れた時のままであることが分かった。従って、僕の行動方針は実に単純だ。つまり、決して彼の夢想を妨げないこと。彼に与える忠告は、せいぜい間接的にすること。僕達の友情の維持については、彼の善性に委ねておくこと。決して、無理に彼の手に僕の手を握らせようとしないこと。すなわち、一口で言えば、自分を完全に消して、常に陽気に彼を迎え、うるさがられずに彼を求め、親密さの程度については彼の好むように委ねておくことである。多分、僕の言葉は君を驚かせるだろうが、これは合理的なのだ。僕にとって、常にポールは、僕を理解し評価してくれる一つの良心、一人の友人だ。ただ、人にはそれぞれ性分があるので、もし彼との友情を途絶えさせたくなければ、知恵を使って彼の気性に自分を適合させねばならない。多分、君との友情を保つためには、僕は論理を使うだろう。しかし、彼との場合は、それでは全てを失ってしまうだろう。僕達の間には、少しも暗雲があると考えてはならない。僕達は、常に固く結ばれているのだ(20)。
 その上で、ゾラは一八六一年八月頃のジャン=バティスタン・バイユ宛書簡で、セザンヌの心理状態を次のように洞察している。
 ポールは、度々自信を喪失する。少し気取って成功を軽蔑するけれども、本当は成功を欲しているのだと僕には分かる。調子が悪くなると、セザンヌはエクスへ帰って商店の店員になるとばかり言う。そこで僕は、それがいかにばかげているかをセザンヌに証明するために大演説をしなければならなくなる。セザンヌはたちまち同意して、仕事を再開する。しかし、この考えはポールに巣食っており、彼は既に二度も出発寸前にまでなった(21)。
 そして、ゾラは同じ手紙で、その出発寸前にまでなった時のセザンヌの様子を次のように描写している。
 昨日、僕は彼の所へ行った。部屋に入ると、トランクが開かれ、幾つかの引出しが半ば空っぽになっていた。ポールは暗い顔で、色んな物をひっくり返し、トランクの中に滅茶苦茶に放り込んでいた。それから、彼は僕に静かに言った。「僕は、明日出発する」。「では、僕の肖像画は?」と、僕は尋ねた。「君の肖像画はね、今丁度破いたところだ。今朝、僕はそれに手を加えようとした。しかし、どんどん悪くなってしまったので、僕はそれを破り捨てた。だから、僕は出発する」と、彼は答えた。僕は、もう一切反論しなかった。僕達は一緒に昼食を取るはずだったが、それは止め、夕食を一緒に取った。夕方までに、彼はもっと冷静な感情を取り戻し、結局別れ際には、彼は僕に留まることを約束した。――しかし、そこにあるのはただの取り繕いでしかない。彼は、もし今週去らなくても来週去るだろう。彼がやがて去ることは、君にも想像できるだろう。――僕は、今ではその方が良いとさえ思っている。多分、ポールは大画家の才能を持っているが、大画家になる才能は決して持っていないのだ(22)。
 結局、ゾラの予想通り、セザンヌは初上京から約半年後の一八六一年九月に逃げるようにエクスへ帰郷している。恐らく、この年の国立美術学校の入学試験に失敗したためと推定されている。
 エクスに戻ったセザンヌは、父親の銀行の仕事を手伝い始める。しかし、セザンヌはエクスに戻るとパリが恋しくなる。画家こそが自分の天職のように思え、銀行の仕事には一向に関心を持てない。セザンヌは、再びエクス市立素描学校にも通い出している。
 生気を欠き塞ぎ込んだ日々の中で、セザンヌは父親の銀行の帳簿に次のような二行詩を書き付けている。「銀行家セザンヌは戦慄せずにはいない/自分の帳簿の背後で一人の画家が生まれ出るのを見て(23)」。
 一年近くこうした鬱屈したセザンヌの様子を見て、威圧的な父親もとうとう匙を投げる。渋々ながら、ルイ=オーギュストは息子が画業に専念することを承認したのである。敏腕経営者であるルイ=オーギュストにしてみれば、たとえもしこのまま息子が浮ついた気持ちで自分の銀行を継いだとしても、早晩倒産させてしまうことは火を見るより明らかだったに違いない。
 ルイ=オーギュストは、息子がジャ・ド・ブッファンの一階大広間をアトリエとして使うことさえ容認している(24)。現実的な父親は、親子二人で世間の物笑いの種になるよりは、まだ息子が画家として早く一人前になれるように本気で支援した方が良いと判断したのではなかっただろうか?
 いずれにしても、以後セザンヌは、パリとエクスの往復生活を開始し、大体五月のサロン前にパリに上京し、年に一度エクスに帰郷するようになる(25)。
 セザンヌにとって、この移動生活は、たとえパリで画家として成功できなくても体面が決定的に傷付くことは回避でき、さらにエクスでは画家として銀行家の跡取りの責務からは放免されるという利点を持っていた。事実上、このことは、セザンヌにはゾラほどには自分の全てを賭けて絵筆一本でパリ画壇と勝負する勇気が無かったことを示している。
 それでも、この生活方式を相談されたゾラは、当時少しでもセザンヌが身近にいることを切望していたので、一八六二年九月二九日付ポール・セザンヌ宛書簡で次のように擁護している。
 パリへ仕事に来て、それからプロヴァンスへ引き込むという君の考えに、僕は全面的に賛成する。それは、諸流派の影響を避け、もし何らかの独創性を持つならば、それを発展させる一つの方法だと僕は思う。――そう、君がパリへ来ることは、君にとっても僕達にとっても非常に良いことだ。僕達は生活の仕方を決め、週に二晩は一緒に過ごし、後は全て仕事をしよう。僕達が会う時間は、無駄な時間ではない。友達と共に時間を過ごすことほど、僕を勇気付けることはないのだ。――だから、僕は君を待っている(26)。
 こうしたエクスとパリの間の頻繁な転居生活は、セザンヌが自らの不安定な心の均衡を保とうとする内的欲求から生まれたことは確かである。しかしその背景には、彼のパリ初上京の六年前の一八五五年に、両地の時間的距離を近付けるパリ=マルセイユ鉄道路線が開通し、現実にそうした長距離の転住生活が容易になったという外的要因が働いていた事実も見逃せない。
 セザンヌの二度目のパリ上京は、一八六二年一一月である。

  2 印象派への参加

 当時のパリは、第二帝政期(一八五二‐一八七〇年)の真っ只中であり、一八世紀後半の産業革命とフランス革命を受けて、社会体制の担い手がそれまでの王侯貴族から新興中産階級へ本格的に移行する変動期であった。それに伴い、パリではいち早く文化もまたブルジョワ趣味に合わせて、前代の高尚で因習的な上流文化の踏襲ではなく、新しい世俗的で現実的な中流文化の模索が始まっていた。
 文学では、シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire: 一八二一‐一八六七年)が、『一八四六年のサロン』(一八四六年)で時代に先駆けて「近代生活の叙事詩的側面(27)」を説き、『近代生活の画家』(一八五三年)で決定的に同時代事物の芸術的主題化を称揚する(28)。
 絵画では、その新しい潮流は、保守的で旧習的なアカデミズムからの脱却として現れる。つまり、画題面では、従来の宗教・神話・歴史に基づく空想画ではなく、より合理的で日常的な同時代画題が好まれ、造形面では、旧来の客観的で再現的なルネサンス的リアリズムではなく、より主観的で個性的な表現が注目され始める。
 そうした絵画における新傾向は、古い世代にはまだ強く拒否されていたが、若い世代には少しずつ支持されるようになっていた。その新傾向の代表が、ボードレールと交流のあった三人の画家、つまりユジェーヌ・ドラクロワ、ギュスターヴ・クールベ、エドゥアール・マネである。彼等は、アカデミー・シュイスに通ったことがある点でも共通していた。
 まず、一九世紀前半に、正統なアカデミズムを継承する新古典派に対し、ロマン派のユジェーヌ・ドラクロワ(Eugene Delacroix: 一七九八‐一八六三年)が、一八二四年のサロンに入選した《キオス島の虐殺》(一八二四年)(図9)等で、画題面では、同時代事件を積極的に取り上げると共に、造形面では、まだ写実的なルネサンス的リアリズムを守りつつも、理性に基づく素描よりも感性に基づく彩色を重視して、絵画における新しい時代の到来を告げる。


図9 ユジェーヌ・ドラクロワ 《キオス島の虐殺》 1824年 油彩 画布 354×419 cm

 次に、写実派のギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet: 一八一九‐一八七七年)は、一八五五年の第二回パリ万国博覧会に落選した《オルナンの埋葬》(一八四九‐五〇年)(図10)等で、画題面では、高邁な非現実を描くのではなく平凡な日常を大作化し、造形面では、まだ自然主義的なルネサンス的リアリズムに基づきつつも、パレットナイフによる厚塗りを重用して、反アカデミズムの急先鋒となる。


図10 ギュスターヴ・クールベ 《オルナンの埋葬》 1849-50年 油彩 画布 314×663 cm

 続いて、エドゥアール・マネ(Edouard Manet: 一八三二‐一八八三年)は、一八六三年の落選者展に出品した《草上の昼食》(一八六二‐六三年)(図11)や、一八六五年のサロンに入選した《オランピア》(一八六三年)(図12)等で、画題面では、女性の裸体を神話的に理想化せずに当世風に赤裸々に描き、造形面では、平板で単純な色面表現を多用することで大いに物議を醸す。


図11 エドゥアール・マネ 《草上の昼食》 1862-63年 油彩 画布 208×265.5cm


図12 エドゥアール・マネ 《オランピア》 1863年 油彩 画布 130.5×190cm

 やがて、この新時代の旗手と目されたマネの周りに、一八六五年頃から新進の革新的な青年画家達が集団を形成し始める。すなわち、後に印象派と呼ばれる、カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro: 一八三〇‐一九〇三年)、エドガー・ドガ(Edgar Degas: 一八三四‐一九一七年)、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley: 一八三九‐一八九九年)、クロード・モネ(Claude Monet: 一八四〇‐一九二六年)、フレデリック・バジル(Frederic Bazille: 一八四一‐一八七〇年)、ベルト・モリゾ(Berthe Morisot: 一八四一‐一八九五年)、ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir: 一八四一‐一九一九年)、アルマン・ギヨマン(Armand Guillaumin: 一八四一‐一九二七年)、メアリー・カサット(Mary Cassatt: 一八四四‐一九二六年)、ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte: 一八四八‐一八九四年)等である。
 そして、セザンヌもまた、その青年画家集団の一人であった。既に述べたように、彼は初上京の一八六一年にはピサロやギヨマンと知り合い、一八六三年にはシスレー、モネ、バジル、ルノワールと交友し、一八六六年にはマネとも面識を持つようになる。
 その一八六六年以降、セザンヌとゾラは共に、マネとその周辺の青年画家達がパリのバティニョール街のカフェ・ゲルボワで開いていた芸術談義に参加している。ただし、一座の中心であるマネに対する接し方では、セザンヌとゾラには差異もあった。
 一八六二年にアシェット出版社に入社し、既に文筆家として活動を始めていたゾラは、この頃美術批評も手掛けていた。ゾラは、一八六六年には『レヴェヌマン』紙でサロン評を担当し、保守的なアカデミズムを痛烈に批判すると共に、一八六六年五月七日付の「マネ氏」で、「ルーヴル美術館には、マネ氏のための場所が用意されている。クールベのための場所が用意されているように。つまり、独創的で強靭な気質を持つ全ての画家達には彼等のための場所が用意されているように(29)」と称える等、画壇に冷遇されていた革新派の代表画家マネをほぼ初めて文筆で好意的に賞賛している。
 この連載は、保守派の読者層の反発を受けて途中で中断させられるが、さらにゾラは『エドゥアール・マネ――伝記批評研究』(一八六七年)等を著して、マネに対する共感的支持を表明している。そのお礼に、マネはゾラに《エミール・ゾラの肖像》(一八六八年)(図13)を捧げている。


図13 エドゥアール・マネ 《エミール・ゾラの肖像》 1868年 油彩 画布 146×114cm

 一方、セザンヌは、マネに会っても「私はあなたと握手はしません、マネさん。一週間も手を洗っておりませんので(30)」と鼻声で嘯き、マネに次回のサロン出品作について尋ねられた時には「糞の壷を一つ(31)」と茶化す等、先輩画家に対して対抗心を露わにすることもあったという。
 元々セザンヌは、あまりこのカフェ・ゲルボワの集いの熱心な出席者ではなく、参加しても独り離れて沈黙していたり、わざと野卑な田舎者のように振る舞ったり、自分と異なる意見に猛烈に反論したり、突然憤慨して誰にも挨拶せずに帰ったりする等して、他の参加者達から顰蹙を買うこともあったらしい。しかし、それでもなおセザンヌの独特な感受性の鋭敏さは、当時からこの会合の出席者達の注目を集めていた。
 マネは、革新派の頭目とはいえ、サロン出品にこだわる点でまだ画風に保守的な側面も残していた。これに対し、徐々にその周辺のモネを中心とする青年画家達は、マネが切り拓いた新しい画風をさらに推し進め始める。彼等の画風は、画題面では、モネの《草上の昼食》(一八六五‐六六年)(図14)を始め、同時代の日常的な現実風景を好んで描き、特に外光下の屋外写生を積極的に取り入れるものであった。また造形面では、モネの《ラ・グルヌイエール》(一八六九年)(図15)を筆頭に、原色的な色斑を並置して、離れて見た時に網膜上で視覚混合させ、従来とは比較にならない画面の明るさと躍動感を生む方向に進んでいた。


図14 クロード・モネ 《草上の昼食》 1865-66年 油彩 画布 248×217cm


図15 クロード・モネ 《ラ・グルヌイエール》 1869年 油彩 画布 75×100cm

 当初、アカデミズムからは、モネ達のそうした素朴で現世肯定的な画題は、卑俗で無教養なものとして疎まれる。また、後に「筆触分割」として知られるその造形上の斑点描法も、形態面では具体的な輪郭線的形体描写を解消し、色彩面では固有色の明暗による具象的な肉付表現を解体するために、その両者の達成で高い写実性を実現していた旧来のルネサンス的リアリズムに甚だ劣る粗雑な手法として蔑まれる。
 そうした急進的なモネ達の中でも、セザンヌの画風は一際異彩を放っていた。というのも、上京してパリ画壇の動向に触れて以来、当時のセザンヌは、画題面では、ロマン派の感化を強く受けて煽情的な題材を多く取り、造形面では、素描を軽視し、クールベの先進性に張り合ってパレットナイフ等で油絵具をより荒々しく厚塗りする自称「クイヤルド(睾丸)」技法を愛用していたからである(図6・図7・図16)。


図16 ポール・セザンヌ 《殺人》 1870年頃 V. 121 R. 165 油彩 画布 65×80cm

 そうしたセザンヌの粗暴で自己顕示欲の強い画風は、モネ達よりも一層、アカデミズムが重視する、形態・色彩共に客観的再現性の高い一点透視遠近法に基づくルネサンス的リアリズムとは相容れないものであった。そのためセザンヌは、一八六三年の国立美術学校の入学試験には「度を超えて描き過ぎる(32)」という理由で不合格になっている。
 また、セザンヌは一八六三年の落選者展への出品に続き、翌一八六四年以後もサロンに落選を繰り返している。元よりセザンヌは、自分がサロンに入選できないことをよく自覚していたらしく、わざと審査員の反感を買う奇抜で挑戦的な作品を提出期限間際に友人達と連れ立って搬入するなど、外面上は露骨に反骨的な姿勢を誇示していた。
 例えば、セザンヌは一八六五年三月一五日付カミーユ・ピサロ宛書簡で、自らの意気込みを次のように言明している。「僕達は、土曜にシャン・ゼリゼの会場へ作品を運ぶ予定で、アカデミーを激怒と絶望で真っ赤にしてやるつもりです(33)」。
 特に一八六六年には、セザンヌのサロン応募作は、新傾向に理解を示す審査員シャルル=フランソワ・ドービニー(Charles-Francois Daubigny: 一八一七‐一八七八年)(図87)には支持されたにもかかわらず、他の審査員に「パレットナイフだけでなくピストルでも描いている(34)」とまで毛嫌いされて落選している。


図87 シャルル=フランソワ・ドービニー 《ボニエールの船着場》 1864年 油彩 画布 62×100cm

 この頃のセザンヌの尊大ぶりは、友人アントワーヌ=フォルチュネ・マリオンの一八六六年三月二八日付ハインリヒ・モルシュタット宛書簡から察せられる。「僕は、パリの友人から一通の手紙を受け取ったところだ。ポールはサロンに落選することを望み、彼の画家仲間達はその祝賀会を準備しているという(35)」。
 また、この時セザンヌは、美術局総監ニューヴェルケルク伯爵に抗議の手紙を二度送り付け、二度とも黙殺されたらしい。セザンヌは、その二度目の一八六六年四月一九日付書簡で次のように豪語している。
 サロンの審査員が拒否された私の二枚の作品に関し、私は最近、貴殿にお手紙を差し上げる光栄に浴した者です。まだお返事を頂けておりませんので、私は貴殿にお手紙を差し上げるに至った理由をさらに主張せねばならないと考えます。ただし、私のお手紙は確かに受け取られたことと存じますので、貴殿に奏上すべきと考えた議論についてはここでは繰り返しません。私は、改めて次のことを申し上げるに留めます。つまり、私は審査員諸子の無法な判決を受け入れることはできず、彼等に私自身を評価する責務を任せることもできないのです。〔…〕それゆえ、私は落選者展の再開を要求します。もし、そこに並ぶのが私の作品だけであろうとも構いません。私が熱望するのは、少なくとも私はこれ以上審査員諸子と混同されることに我慢ならず、彼等も私と混同されることは望んでいないらしいことを、大衆に知ってもらうことなのです(36)。
 なお、この文面には、正にその同日に先述のアカデミズムを痛罵する『レヴェヌマン』紙のサロン評の第一回目「ある自殺」を執筆した、盟友ゾラの協力もあっただろうと推測されている(37)。
 少なくとも、ゾラがこの同月の一八六六年四月二七日から五月二〇日にかけてそのサロン評を連載し、その連載最終日の同年五月二〇日付の「我が友ポール・セザンヌに」と題する書簡体の序文を付加して、それらをまとめて同年七月に『我がサロン』(一八六六年)として出版していることは事実である。そうである以上、その同じ一八六六年七月に、セザンヌとゾラが共にベンヌクールで夏休暇を過ごした時、血気盛んな二〇代半ばの二人(セザンヌ二七歳、ゾラ二六歳)が、前世代の古い美意識の打倒を目指して、この手紙と同様の反アカデミズムの怪気炎を上げていたことは大いに想像できる。
 ちなみに、ゾラはこの一八六六年の『レヴェヌマン』紙のサロン評で、マネに続く革新派としてモネやピサロも称賛していた。そしてセザンヌは、この年の秋に描いた《ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像、『レヴェヌマン』紙を読む画家の父》(一八六六年秋)(図7)で、その『レヴェヌマン』紙を父親に読ませており、前世代の保守的で懐疑的な父親に対し、新世代であるゾラや自分達新進画家の革新性と正当性を暗示的に主張している。
 この一八六六年夏のベンヌクール滞在頃から、セザンヌは徐々に屋外で風景画を数多く写生するようになり、その彩色も少しずつ明快さを増していく(図2・図80)。しかし、それでもセザンヌがサロンに入選する気配は全く無かった。結局、一八六〇年代にセザンヌがサロンに出品した作品は全て落選している。


図2 ポール・セザンヌ 《モティーフへ出かけるマリオンとヴァラブレーグ》 1866年 V. 96 R. 99 油彩 画布 39×31cm


図80 ポール・セザンヌ 《ボニエールの船着場》 1866年夏 R. 96 油彩 画布 38×61cm

 そうした陽の目を見ない半人前の境遇の中で、セザンヌは一八六九年の三〇歳の時に、モデルとして知り合った一九歳のオルタンス・フィケと同棲を始めている。またセザンヌは、一八七〇年に勃発した普仏戦争では徴兵を忌避し、オルタンスと共にエクス近隣のエスタックに隠れ住んで制作に熱中している。そして一八七二年には、二人の間に同名の長男ポールが生まれている。
 なお、この一八七二年に、セザンヌは移り住んだオーヴェール・シュル・オワーズ近隣のポントワーズで、カミーユ・ピサロと一緒に屋外で写生し、ピサロを通じて、一八六九年にモネとルノワールがラ・グルヌイエールで編み出した(図15)、後に印象派の代名詞となる「筆触分割」的斑点描法を学んだと言われている。

  3 印象派展とその後

 運命の時は、満ちる。
 一八七四年に、サロン出品にこだわるために辞退したマネを除き、その周囲のモネを中心とする青年画家達は、自分達の新しい画風を認めないアカデミズムに反抗し、独自に最初の団体展を敢行する。しかしこの時、モネ達の作品は、専門画家のみならず、アカデミズムを信奉する一般観衆からも大きな不評を買う。
 事実、大衆紙『ル・シャリヴァリ』の記者ルイ・ルロワは、会期中の一八七四年四月二五日付の展覧会評「印象派の展覧会」で、モネの《印象、日の出》(一八七四年)(図17)を次のように揶揄している。この評言を機に、「印象派」という画派名が定着したことは有名である。
 「ああ! これこれ!」ヴァンサン氏は、九八番の作品の前で叫んだ。「わしはこの画家を知っているぞ、ヴァンサン親父のお気に入りじゃ! この絵は何を描いているのかね? 目録を見てくれたまえ。」「《印象、日の出》です。」「印象impression)、そうだと思ったとも。わしも、自分にそう言い聞かせたわい。わしが印象を受けたのだから、この絵には印象があるに違いないのじゃ……。しかし、何と勝手で、何と気ままな手際かのう! 描きかけの壁紙でさえ、この海景画よりはもっと仕上がっているわい!」(38)。

図17 クロード・モネ 《印象、日の出》 1873年 油彩 画布 48×63cm

 この時、三五歳のセザンヌは三点出品するが、特に悪評を集める。ルロワは、同じ「印象派の展覧会」で、セザンヌの出品作の一つで、彼がマネの先進性に張り合って描いた《近代のオランピア》(一八七三‐七四年)(図18)を次のように嘲笑している。
 何と! これを見たまえ! 体を二つに折り曲げた女が、黒人の女に最後の覆いを剥ぎ取られ、その醜さ全てを晒し、それを茶色い操り人形のような男が見入っているぞ。マネ氏の《オランピア》を覚えているかね? さてさて、このセザンヌ氏の作品に比べれば、マネ氏の作品は、素描、正確さ、仕上げにおいて傑作じゃったわい(39)。

図18 ポール・セザンヌ 《近代のオランピア》 1873-74年 V. 225 R. 225 油彩 画布 46×55cm

 セザンヌは、その二年後の一八七六年に開かれた第二回印象派展には、サロンへの出品を優先したため参加しなかった。そのサロンに落選した後、セザンヌは再び翌一八七七年の第三回印象派展に《エスタックの海》(一八七六年)(図3)等の油彩画一四点と水彩画三点を出品するが、やはり一般観衆から極めて酷評される。
 例えば、会期中の一八七七年四月二三日付のロジェ・バリュの展覧会評「印象派画家の展覧会」では、セザンヌ作品は次のように嘲弄されている。
 この展覧会に喜んで参加しつつ、クロード・モネ氏は一三点、セザンヌ氏は一四点を展示している。それらは、実際に見なければどのようなものか想像することもできない。それらは笑いを誘うが、哀れである。つまり、それらは素描、構図、彩色の最も深刻な無知を晒している(40)。

図3 ポール・セザンヌ 《エスタックの海》 1876年 V. 168 R. 279 油彩 画布 42×59cm

 また、会期中の一八七七年四月六日付の『レヴェヌマン』紙の無記名の展覧会評「印象派の展覧会」では、セザンヌ作品は次のように愚弄されている。
 セザンヌ氏は奇妙な風景画を出品しているが、この作品は、彼が二つの事物――ホウレン草と靴修理――に暴力的な印象を受けたことを示している。実際、その緑は震えを起こさせ、前景に見られる木立は正に恐ろしい痛みに萎縮する長靴の列を思わせる。さらに付言すれば、《男の頭部》はチョコレートでできた殺人者の頭部のように見える(41)。
 なお、この第三回印象派展で、モネはサン・ラザール駅連作(図30)を少なくとも一一点発表し、その蒸気機関車を中心とする画題の斬新さで賛否両論を巻き起こしている。この頃ゾラは、如実に頭角を現すモネを積極的に賞揚し始めており、このサン・ラザール駅連作も絶賛している。


図30 クロード・モネ 《サン・ラザール駅、汽車の到着》 1877年 油彩 画布 82×101cm

 結局、セザンヌの印象派展への参加は、この第三回展が最後となる。その後、印象派展は一八八六年の第八回展まで続くが、セザンヌは、ある時は他の出品者から自分のサロン出品が嫌がられたために、また別の時は自ら出品作が無いことを口実にする等して、最終的に全て出品を見送っている。この間、セザンヌは印象派仲間とは断続的に交流しつつも、エクスとパリの往復を中心に頻繁に転居を繰り返しながら、「感覚の実現」に要約される自らの美学を独自に追求していく。
 セザンヌが印象派展には参加しなくてもサロンには出品している以上、彼の宿願はやはりあくまでもサロンでの成功であったと言える。その意味で、セザンヌはまだ保守的な画家であった。
 しかし、そのサロンには画風が革新的過ぎと見なされて、一八七〇年代にセザンヌが出品した作品はやはり全て落選している。セザンヌはそうした自らのサロン落選について、一八七八年五月八日付エミール・ゾラ宛書簡等で次のように弁明している。「僕には、あの絵が入選できないことは非常に良く理解できる。なぜならその出発点が、到達すべき目標から、つまり自然の再現からかけ離れ過ぎているからだ(42)」。
 こうしたサロン落選画家であるセザンヌは、たとえどれほど強がってみせても、サロン入選を職業画家の一種の免状とみなす当時の美術業界の慣習として、自作が売れることは滅多になかった。当然、家計は常に逼迫しており、さらに悪いことにセザンヌは宵越しの金を持たない性格でもあった。
 その金遣いの荒さについて、ゾラは一八六〇年一〇月二日付のポール・セザンヌとジャン=バティスタン・バイユ宛書簡で、次のように言及している。「お金を持っていると、ポールはいつも就寝するまでに大急ぎで使い切ってしまおうとした。僕がこの浪費癖をたしなめると、ポールは僕に言った。『もっともだ! もし僕が今晩死んだ時、君は僕の両親が遺産を相続した方が良いって言うのかい?』(43)」。
 こうした経済観念の弱いセザンヌが、定職にも就かずに一応生計を立てられ、気ままに絵画を描き続けることができたのは、富裕な実家から定期的に仕送りを受けていたからに他ならない。セザンヌのサロン入選への執心にも、何よりもまず、権威的な父親に対して自らの社会的成功を証立てたいという心理が強く働いていたのかもしれない。
 しかし、現実には「モラトリアム人間(44)」に過ぎないセザンヌは、不興を買って毎月の仕送りを中止されることを怖れて、父親には内縁の妻オルタンスや息子ポールの存在を長らく秘密にさえしていた。
 例えば、セザンヌは一八七八年三月二三日付エミール・ゾラ宛書簡で、父親の目から妻子の存在を隠して逃げ回っている苦境を次のように訴えている。
 親愛なるエミール。どうやら、僕は生活費を自分で稼がなければならなくなりそうだ。ただ、もし僕にそれが可能であればなのだが。父と僕の関係が極めて悪化し、僕は仕送りを全て廃止されそうなのだ。ショケ氏が僕に宛てた手紙の中の「セザンヌ夫人とポール坊や」という文言が、僕の立場を父に決定的に明らかにしてしまった。何しろ、父は疑念に満ちて目を光らせ、僕宛の手紙を何よりも熱心に開封して真っ先に読んでしまうのだ。たとえ宛名に、「画家ポール・セザンヌ殿」と書かれていてもだ。そこで君の厚情にすがりたいのだが、もし君が可能だと判断するならば、君の力で僕をどこかに紹介し、君の周りで僕向けの仕事を探してもらえないだろうか。僕と父の関係はまだ決裂してはいないが、僕は何とか二週間以内にこの事態を打開したいと思うのだ(45)。
 また、セザンヌは一八七八年四月四日付エミール・ゾラ宛書簡で、父親に隠れて妻子に会っている苦労を次のように伝えている。
 僕は、何とかしてマルセイユへ行くつもりだ。一週間前の火曜日に、僕は子供に会うためにこっそり抜け出したのだが(子供は快方に向かっている)、エクスまで徒歩で帰ることを強いられた。僕の汽車の時刻表は間違っており、それでも僕は夕食のために家に居なければならなかったのだ。結局、僕は一時間遅刻してしまった(46)。
 さらに、セザンヌは一八七八年九月一四日付エミール・ゾラ宛書簡で、疑い深い父親の追及を上手く切り抜けたことを次のように誇っている。
 最近僕に降りかかった災難は、次の通りだ。オルタンスの父が娘に宛てて、セザンヌ夫人様と表書きして、(パリの)ルエスト街へ手紙を送る。僕の家主は、急いでこの手紙をジャ・ド・ブッファンへ転送する。僕の父が、この手紙を開封して読む。その結果は、君にも分かるだろう。僕は、頑強に否定した。全く幸いにも、その手紙にオルタンスの名前は出てこなかったので、僕はどこか知らない女宛の手紙だと言い張った(47)。
 こうしてやや幼稚で現実処理能力の低いセザンヌは、ゾラに度々借金も重ねている。例えば、セザンヌは一八七八年一一月四日付エミール・ゾラ宛書簡で次のように金銭援助を申し込んでいる。
 親愛なるエミール。君はもう街へ帰っていると思うので、僕はこの手紙をパリ宛で出す。僕が手紙を書いた理由は、次の通りだ。今、オルタンスが急用でパリにいる。もし差支えなければ、どうか彼女に一〇〇フラン送って欲しい。僕は今窮地にあるが、抜け出せると思っている。――新たにこの援助をしてもらえるかどうか、僕に知らせてくれ。不都合の場合には、何か他の手段を講じたいと思う。いずれにせよ、君にお礼を言っておく。それと、僕に返事をくれる時は、少しは芸術のことも書いて欲しい。来年は数カ月、またパリへ行こうと常に考えている。二月か三月頃になるだろう(48)。
 一八八二年、セザンヌはようやく四三歳の時に、長年入選を目指していたサロンに一度だけ入選する。というのも、審査員になっていたアカデミー・シュイス以来の年下の旧友アントワーヌ・ギュメ(Antoine Guillemet: 一八四一‐一九一八年)に頼み込み、審査員は弟子の作品を一枚だけ無条件で合格させられるという特権を利用して、ギュメの弟子として、《ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像、『レヴェヌマン』紙を読む画家の父》(一八六六年秋)(図7)を展示してもらったのである。
 しかし、この作品はほぼ完全に無視され、一般的にはほとんど何の世評も呼ばなかった。なお、この翌年以後この審査員特権が廃止されたことは、恐らく前年にこのセザンヌの大作が展示されたことと無縁ではないはずである。結局、これを最後に存命中セザンヌがサロンに入選することは二度となかった。
 こうして、自負心は強いながらも結果を出せないセザンヌを尻目に、「一行も書かぬ日はなし」を座右銘として着実に努力し続けるゾラは、一八七〇年代後半にはベストセラーを連発していた。
 特に、一八七七年に発表したルーゴン=マッカール叢書の第七巻『居酒屋』は、その登場人物達の堕落していく弱さや醜さを直視する内容が、批評家には酷評されつつも一般大衆には大評判となる。
 翌一八七八年には、ゾラはその印税でメダンに豪邸を建てて、定期的に新進芸術家の集いを主宰する等、自然主義文学運動の中心作家として押しも押されぬ文壇の寵児となっていく。
 また、『居酒屋』の続編と言える、一八八〇年に出版したルーゴン=マッカール叢書の第九巻『ナナ』も、その高級娼婦を巡るスキャンダラスな人間模様を真正面から描き出す内容が一般読者に大反響を呼んでいる。
 こうして大作家ゾラと無名画家セザンヌの間には、徐々に隙間風が吹き始める。結局、次第にゾラが文壇で名声を確立し、他の印象派の画家達も画壇の人気画家となる一方で、ただ独りセザンヌだけは、晩年までその画業が評価されることは一般にはほとんど全くなかった。
 例えば、ゾラの弟子でメダンの集いの常連であったジョリ=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans: 一八四八‐一九〇七年)は、一八八三年に『近代美術』を出版した際に、カミーユ・ピサロから一八八三年五月一五日付の書簡で、「私達の間では、当代の最も瞠目すべき最も興味深い気質の一つと認めない者のいない、近代美術に非常に大きな影響を与えたセザンヌについて、どうしてあなたは一言も述べないのですか?(49)」と責められたことに対し、一八八三年頃のピサロ宛の返信で次のように反論している。
 セザンヌの人格に、私は深く共感しています。なぜなら、私はゾラに聞いて、セザンヌが一つの作品を創り上げようと試みる時の努力、失望、敗北の数々を知っているからです! そうです、彼は一個の気質であり、一人の芸術家です。しかし要するに、幾つかのしっかりした静物画を除けば、残りは、私見では、少しも生き長らえるようには生まれていないのです。興味深いし、珍奇だし、熟慮するならば示唆的ですが、しかしそこには確かに目の病気があり、そのことは彼自身も気付いていると、ある人が私に保証しています……。愚見では、セザンヌの絵画は出来損なった印象派の典型です(50)。
 私生活では、内縁の妻オルタンスは、激しやすく気難しいセザンヌのモデルを忍耐強く務めることのできた稀な女性であったが、彼の絵画にはほとんど全く興味を示さなかったと言われている。一方、セザンヌはセザンヌで、一八八五年春頃に別の女性宛の恋文の下書きを書いたりもしている。
 私はあなたにお会いし、あなたは私に接吻を許して下さいました。あの時以来、私の深い煩悶は止みません。苦悩する一人の友人が、こうして敢えて手紙を書くことをどうかお許し下さい。私のこうした振舞いを、あなたは不躾だと思われるかもしれません。しかし、私を圧倒するこの思いを黙って語らずにいられるでしょうか? 感情を隠すよりも、むしろ明らかにする方が良いのではないでしょうか?(51)
 一八八六年に、父ルイ=オーギュストが八八歳で亡くなる。これにより、四七歳のセザンヌは一生衣食住に困らない莫大な遺産を相続する。
 また、この年四月二八日に、セザンヌはオルタンスとも正式に入籍している。しかし、既に夫婦仲は冷めていたと言われ、やがてセザンヌと妻子は別居生活を送るようになる。

  4 同世代からの批判

 経済的には安定するものの、セザンヌの苦難は続く。
 第八回印象派展が開催された一八八六年に、遂にセザンヌは、愛想を尽かしたゾラに、ルーゴン=マッカール叢書の第一四巻『制作』(一八八六年)で、成功できずに自殺する主人公の画家クロード・ランティエのモデルにされてしまう。この本をきっかけに、セザンヌとゾラの長年の交友は途絶えてしまったと言われている。
 これほど苦労しても、駄目にするばかりとは、俺の頭蓋骨には一体何が詰まっているのだ? もしや、目の病気が正しく見ることを妨げているのか? この手は、もはや俺の手であることを止め、俺に従うことを拒否するのか? クロードはますます気狂いのようになり、この遺伝的な未知のものに苛立つのだった。その未知のものは、時には彼に天才的な創造をもたらし、また時には素描の基礎さえも忘れさせるほどの無能な痴呆状態をもたらすのだった(52)。
 また、ゾラは同著で、自らをモデルとするサンドーズに次のように評させている。
 疑いなく、クロードはあの天才の余りに激しい病害で狂わされ、肉体的に苦しめられていた。人よりも何かが三グラム少ないか多いかだと言っては、自分を酷く奇妙に産んだ両親を責めていた。しかし、クロードの病気は彼一人のものではなかった。クロードは、時代の犠牲者だったのだ……(53)。
 さらに、ユイスマンスは、一八八八年八月四日付の『ラ・クラヴァッシュ』紙の「三人の画家――セザンヌ、ティソ、ワグナー」で、セザンヌについて実名で次のように要約している。
 要するに、故マネ氏よりも印象派運動に貢献した啓発的な色彩家、病んだ網膜の画家、その激昂した視覚において新しい美術の徴候を明らかにした画家と、この余りにも忘れられた画家セザンヌを要約できるであろう(54)。
 こうした不遇と無理解の中で、次第にセザンヌの人間不信と被害妄想は高まっていく。感情の起伏も激しくなり、カミーユ・ピサロの一八九六年一月二〇日付息子リュシアン宛書簡によれば、セザンヌは一八九五年六月にアカデミー・シュイス以来の旧友フランシスコ・オレルに対し友情を一方的に放棄したりしている。
 パリを発つ前に友人のオレルに会ったら、彼とセザンヌとの間に起きた異常なことを話してくれた。セザンヌは、明らかに病状を示している。〔…〕あの全く南仏的な開放性で、大いに親愛の情を示されたので、オレルはすっかり真に受けて、エクス・アン・プロヴァンスへ親友セザンヌについて行っても良いのだと思った。翌日のパリ=リヨン=地中海鉄道の汽車で、待ち合わせることになった。「三等車で」と、親友セザンヌは言った。さて翌日、オレルはプラットフォームで目を見開いて四方を見回す。セザンヌはいない! 汽車が動き出す。いない!! オレルはとうとう「僕がもう乗ったと思ってセザンヌも乗ったのだ」と自分に言い聞かせ、意を決して乗車する。リヨンに着くと、オレルはホテルで財布の中の五〇〇フランを盗まれてしまう。引き返すこともできないので、念のためオレルは、セザンヌの家に電報を打つ。セザンヌは(エクスの)自宅にいた、彼は一等車に乗ったのだ! 〔…〕セザンヌは人を馬鹿にするな等と言って、オレルを戸口で追い返した。〔…〕彼は、私達全員に対して激怒しているようだ(55)。
 また、元来率直過ぎるゆえに癇癪持ちでもあったセザンヌは、ピサロの同じ書簡によれば、次のように怒鳴り散らすこともあったらしい。「ピサロは老いぼれ、モネは狡猾、あいつらは腹の中に何も持っていない……。気質を持っているのは俺だけ、赤色の使い方を知っているのも俺だけなのだ……!!(56)」。
 そして、セザンヌは、自分の画風の秘訣を他人に奪われることに異様に猜疑心と警戒心を強めていく。例えば、ギュスターヴ・ジュフロワは、一八九四年一一月二八日のセザンヌの憤慨を次のように記録している。「私は、ある小さな感覚しか持っていなかった。ゴーギャン氏は、私からそれを盗んだのだ!(57)」。
 その翌一八九五年に、セザンヌは長らく無視されていた故郷エクスの芸術愛好家団体から初めて賛助出品を要請される。この時セザンヌは、喜びの余りその二人の使者にそれぞれ自作を贈るほど意欲的であった。
 しかし、展覧会場では、セザンヌが約八年前の作にもかかわらず、二枚の内の一枚として出品した自信作《サント・ヴィクトワール山と大松》(一八八七年頃)(図1)は、会場の扉口の上に掛けられて笑い物にされる。さらに地元の新聞では、この作品を「巨大な松の枝を通して見える/青い姿のサント・ヴィクトワール山/もし自然がこの画家が信じるようなものならば/こんな簡単な絵でさえ彼の名誉となるのだろう(58)」と風刺する韻文も掲載される。


図1 ポール・セザンヌ 《サント・ヴィクトワール山と大松》 1887年頃 V. 454 R. 599 油彩 画布 66×90cm

 この屈辱的な展覧会の後、セザンヌは自分の芸術が世間に全く理解されないことに深く意気消沈し、予想外の熱烈な賛意を示してくれた旧友の息子ジョアシャン・ガスケにこの作品を無料で贈呈さえしている。
 あなたは若い……。あなたはまだ何も知らない。私はもう絵を描きたくないのです。私は全てを投げたのです……。ちょっとお聞きなさい、私は不幸な男なのです……。気を悪くしないで下さい……。あなたがたった二枚見ただけで私の絵を理解できたなんて、どうして信じられるでしょうか……。これまで私を批評した全ての輩が、一度もほんの少しも理解しなかったというのに……。ああ! あいつらには酷い目に遭わされてきました……。サント・ヴィクトワール山が、特にあなたの目を引いたのですね。あれが、分かりますか? あの絵が気に入ったのですね……。明日、あの絵を君の家に届けさせます……。そして、署名も描き入れます……(59)。
 これに関連して、正確な日付は不明だが、一八九六年頃にセザンヌが若い芸術家に宛てた次のような断章も残されている。「多分、私は来るのが早過ぎたのです。私は、自分の世代の画家というよりも、あなたの世代の画家だったのです(60)」。
 一九〇二年九月二九日に、ゾラがパリの自宅で一酸化炭素中毒により不慮の死を遂げる。その訃報をエクスのアトリエで聞いたセザンヌは、即座に啜り泣き、モデルに帰宅するように指示し、終日閉じ籠って悲嘆に暮れていたという。後年、セザンヌは「ああ! 傑作を生み出している今、もしゾラが生きていてくれたらなあ(61)」と呟くこともあったという。

  5 次世代からの賞賛

 確かに、自分は時代を先取りしているというセザンヌの矜持は、ただの独り善がりではなく歴史的に正しかったことが証明される。なぜならば、五六歳の時、一八九五年にパリのアンブロワーズ・ヴォラール画廊で約一五〇点による初個展が開催された頃から、セザンヌの画風は徐々に次代を担う青年画家達の間で注目され始めるからである。
 例えば、ナビ派の画家モーリス・ドニ(Maurice Denis: 一八七〇‐一九四三年)は、そのヴォラール画廊を舞台に《セザンヌ礼讃》(一九〇〇年)(図19)を描き、一九〇一年六月一三日付セザンヌ宛書簡で老セザンヌを次のように誉め称えている。
 《セザンヌ礼讃》が巻き起こしている反響を、あなたが孤独の底でお知りになられたことほど、私にとって嬉しいことはありません。多分、これであなたは、ご自分が今日の絵画において占められている地位や、あなたを称える賞賛や、啓発された若者達の熱狂を認識されたことでしょう。私もその若者の一人であり、私達にはあなたの弟子を名乗る正当性があります。なぜなら、私達は絵画について理解するところを、正にあなたにこそ負っているからです。そして、私達はそのことをどれほど認めても決して十分ではないことを知っているのです(62)。

図19 モーリス・ドニ 《セザンヌ礼讃》 1900年 油彩 画布 180×240cm

 またドニは、一九〇六年にはケル=グザヴィエ・ルーセルと共に最晩年のセザンヌをエクスに訪れ、《セザンヌ訪問》(一九〇六年)(図20)も制作している(図21)。

 
(左)図20 モーリス・ドニ 《セザンヌ訪問》 1906年 油彩 画布 51×64cm
(右)図21 ケル=グザヴィエ・ルーセル撮影 67歳のセザンヌ 1906年 写真

 さらに、一九〇五年に台頭するフォーヴィズムの中心画家アンリ・マティス(Henri Matisse: 一八六九‐一九五四年)は、「セザンヌは、私達全員の先生です(63)」と称揚し、「セザンヌは、正に一種の絵画の神様です(64)」とまで崇拝している。
 そして、没年の翌年の一九〇七年に、パリのサロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの追悼大回顧展と、その会期中のナビ派の画家エミール・ベルナール(Emile Bernard: 一八六八‐一九四一年)(図22)による「自然を、円筒体、球体、円錐体で扱いなさい(65)」というセザンヌの絵画理論の公表が、同年のキュビズムの誕生に多大な影響を与えたことは周知の通りである。


図22 エミール・ベルナール撮影 65歳のセザンヌ 1904年 写真

 何よりもまず、セザンヌは、画家として晩年まで印象派仲間からは一目置かれる存在でもあった。事実、カミーユ・ピサロは一八九五年一一月二一日付息子リュシアン宛書簡で、セザンヌの一八九五年のヴォラール画廊での初個展を次のように讃美している。
 私はまた、あの見事な作品が並んでいるセザンヌ展について考えていた。非の打ちどころなく仕上げられた、静物画その一方で大変努め励んでいるが構想のままで残され、それでもなお他の作品よりも美しい、風景画裸体画肖像画。これらは未完成であるにもかかわらず、真に偉大で、いかにも絵画らしく、実にしなやかだ……。なぜだろう? そこには、感覚があるからだ(66)!
 また、ピサロは続けて、セザンヌ絵画に魅了された印象派の仲間達の様子を次のように証言している。
 私が長年、奇妙さや当惑を覚えつつも賞賛しているセザンヌ絵画を見ていると、ルノワールがやって来た。私の熱狂など、ルノワールの熱狂に比べれば取るに足らないものだ。ドガとなると、彼はあの洗練された野性の魅力に参ってしまっている。モネも、私達全員が……。私達は間違っているだろうか? 私はそうは思わない。セザンヌの魅力に参らないのは、正に自らの過失で感受性に欠陥があることを曝け出した画家か素人だけなのだ。彼等は確かに、私達の目が明らかに認める間違いを全く論理的に指摘はするが、その魅力については語らない……彼等には、魅力が分からないのだ(67)。
 それでもなお、セザンヌ自身は、最晩年にかけてもまだ自分の「感覚の実現」は納得できるものではないと言い続けている。
 例えば、セザンヌは一八九六年にアンブロワーズ・ヴォラールに次のように慨嘆している。「ヴォラールさん、少しは分かって下さい。私は小さな感覚を持っているのですが、自己を表現するに至らないのです。私は、金貨を所有していながらそれを使えない人間のようなものです(68)」。
 また、セザンヌは一九〇六年九月八日付息子宛書簡でも次のように韜晦している。
 最後に、お前に言っておくが、私は画家として自然を前にするとより明晰になる。しかし、私の作品では、自分の感覚の実現(la réalisation de mes sensations)は、常に非常に骨が折れるのだ。私は、自分の感覚に展開する強烈さに到達することができず、自然を生き生きとさせるあの色彩の壮麗な豊富さも持つことができない(69)。
 この手紙を書いた翌月、一九〇六年一〇月一五日に、セザンヌはエクス・アン・プロヴァンスのローヴにあったアトリエを出て写生に行き、突然雷雨に襲われて昏倒する。それにもかかわらず、翌日彼は制作のためにローヴのアトリエに出掛け、容体を一層悪化させて寝たきりになる。
 そして、この衰弱に肋膜炎を発症し、セザンヌは約一週間後の一〇月二三日午前七時にブールゴン街の自宅で永眠する。享年六七歳。パリで別居中の妻子は、急を知らせる電報は受け取っていたが臨終には間に合わなかった。
 結局、セザンヌは、その一生においてパリへ二〇回以上も往訪したが、終焉の地は生まれ故郷エクスの自宅であった。その意味で、その人生は放浪的ではあったが、決して帰る地を持たない根無し草ではなかったと言える。
 また、セザンヌが亡くなる五日前に病床で書いた最後の手紙は、一週間前に注文してまだ届かない絵具を画材店に催促する内容であった。その意味で、「絵を描きながら死のうと自らに誓いました(70)」(一九〇六年九月二一日付エミール・ベルナール宛書簡)というその言葉通り、初めは踏み出すことにさえ臆病に躊躇したにもかかわらず、結局は最後まで頑固に一人の画家としての本分を貫き通した生涯であった。
 死期を身近に感じた時、老セザンヌは一九〇三年一月九日付アンブロワーズ・ヴォラール宛書簡で、画家としての自分について次のように告白している。
 親愛なるヴォラール。私は、倦まず弛まず仕事をしています。私には、約束の地が垣間見えます。私は、ヘブライの偉大な預言者〔モーゼ〕のようになるのでしょうか? それとも、あの地に足を踏み入れられるのでしょうか? 〔…〕私は、多少の進歩を実現しました。なぜこんなにも遅く、こんなにも辛いのでしょうか? 結局、芸術は一つの聖職であり、自らに完全に帰依する純粋な人々を求めるのでしょうか? 私は、私達を隔てている距離を残念に思います。なぜなら、あなたが私をほんの少し精神的に支えてくれたらと願うことが一度ならずあるのです。私は孤独に暮らしており、他の連中は……お話になりません。知識人連中も、駄目です。ああ、神様! もしまだ生きていられたら、今度その諸々を語らいましょう(71)。

  おわりに

 このように、ポール・セザンヌは、内向的で懐疑心が強く秘密主義者である一方、心を許した友人に対しては依存的に情愛や信頼が深い性格でもあった。
 また、非常に純粋で子供っぽく芸術家気質に溢れている反面、極めて現実処理能力に乏しく処世や人間関係において不器用な人間でもあった。
 そして、並外れて強情で気位が高いけれども優柔不断で意気阻喪もしやすく、革新的で前衛的ではあるけれども保守的で伝統的な人物でもあった。
 すなわち、セザンヌは決して一面的に単純ではない複雑で両義的な画家であったと言える。
 それでは、セザンヌがその生涯の最後まで「実現」しようとしていた「感覚」とは一体何なのだろうか? 次に、改めて蒸気鉄道による視覚の変容という観点から、関連する個々の諸問題を考察していこう。




 引用は全て、既訳のあるものは参考にさせて頂いた上での拙訳である。

(1)ブラッサイが記録する一九四三年一一月一二日のピカソの発言。Brassaï, Conversations avec Picasso, Paris: Gallimard, 1964, p. 99. 邦訳、ブラッサイ『語るピカソ』飯島耕一・大岡信訳、みすず書房、一九六八年、一〇七頁。
(2)Cited in Henri Perruchot, La Vie de Cézanne, Paris: Hachette, 1956, p. 37. 邦訳、アンリ・ペリュショ『セザンヌ』矢内原伊作訳、みすず書房、一九九五年、三一頁に引用。
(3)Émile Zola, Œuvres complètes, I, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 147. 邦訳『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、一九八二年、四七頁に引用。
(4)Zola, Œuvres complètes, I, p. 148. 邦訳、エミール・ゾラ『ゾラ・セレクション(11)書簡集1858-1902』小倉孝誠編、小倉孝誠・有富智世・高井奈緒・寺田寅彦訳、藤原書店、二〇一二年、二八‐二九頁。
(5)成上り者のルイ=オーギュストにとって、ジャ・ド・ブッファン購入はエクスにおける経済的成功の象徴であった。一介の平民出の商売人に過ぎないルイ=オーギュストが、この元貴族の広大な邸宅を購入できたことには、その敷地のすぐ傍を、三年前の一八五六年の開通以来エクス=ロニャック鉄道路線の蒸気機関車が轟音で走り始めて住宅価値が下がったことも有利に働いたかもしれない。
(6)Zola, Œuvres complètes, I, p. 174. 邦訳『セザンヌの手紙』六二頁に引用。
(7)Cited in Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris: Bernard Grasset, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris: Bernard Grasset, 1978, p. 71. 邦訳『セザンヌの手紙』四八‐四九頁に引用。
(8)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 71. 邦訳『セザンヌの手紙』四九頁に引用。
(9)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 87. 邦訳『ゾラ・セレクション(11)書簡集』五八頁。
(10)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 73. 邦訳『ゾラ・セレクション(11)書簡集』三八‐三九頁。なお、こうしてゾラがセザンヌに素描力の向上を諭している以上、元々ゾラが絵画で重視していたのは彩色ではなく素描であり、その意味でゾラは鑑賞者としてはまだ保守的な趣味の持主であったことが分かる。また、これらの証言から、ゾラはセザンヌの芸術的感受性の鋭さには天賦の才能を認めつつも、技術の面では素描力が不足していると考えていたことも窺える。このことが後に、彩色に独特な感受性の鋭敏さを発揮し、素描の歪みに独特な興趣を付与するセザンヌとの間に、美学上の決定的な齟齬を生む原因になったと推察できる。
(11)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 76. 邦訳『セザンヌの手紙』五二頁に引用。
(12)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 77. 邦訳『セザンヌの手紙』五二頁に引用。
(13)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 82. 邦訳『セザンヌの手紙』五四‐五五頁に引用。
(14)Cited in Cézanne, Correspondance, pp. 83-84. 邦訳『ゾラ・セレクション(11)書簡集』五三‐五四頁。
(15)Zola, Œuvres complètes, I, p. 171. 邦訳『セザンヌの手紙』六〇頁に引用。
(16)Cited in Cézanne, Correspondance, pp. 94-95. 邦訳『セザンヌの手紙』六二頁に引用。
(17)Cézanne, Correspondance, p. 96. 邦訳『セザンヌの手紙』六三頁。
(18)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 98. 邦訳『セザンヌの手紙』六五‐六六頁に引用。
(19)Cited in Cézanne, Correspondance, pp. 98-99.
(20)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 99.
(21)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 101. 邦訳『セザンヌの手紙』六六‐六七頁に引用。
(22)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 102. 邦訳『セザンヌの手紙』六七頁に引用。
(23)Cited in Exh. cat., Cézanne, Paris: Réunion des musées nationaux, 1995, p. 532.
(24)なお、一八八二年頃にルイ=オーギュストは、ジャ・ド・ブッファンの屋根裏部屋を息子用のアトリエに整えている。これも、紛いなりにもセザンヌのサロン初入選を受けての親心であろう。
(25)パリとプロヴァンスの二〇回以上の往来がセザンヌの創作活動に与えた影響については、次の文献を参照。『セザンヌ――パリとプロヴァンス』展図録、国立新美術館、日本経済新聞社、二〇一二年。この展覧会図録は、セザンヌにとって、パリは生活及び芸術の「近代性」を学ぶ場所であり、プロヴァンスはそこで学んだものを絵画制作に適用して実践する場所であったと指摘している。これを受けて、さらに本書は、その両地間の移動に用いられる蒸気鉄道という技術手段や、それがもたらす視覚の変容もまた、セザンヌにとっては生活及び芸術の「近代性」を学ぶ機会であったと主張するものである。
(26)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 106. 邦訳『セザンヌの手紙』六八頁に引用。
(27)Charles Baudelaire, “Salon de 1846” (1846), in Œuvres complètes, II, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1976, p. 493. 邦訳、シャルル・ボードレール「1846年のサロン」本城格・山村嘉巳訳、『ボードレール全集(Ⅳ)』福永武彦編、阿部良雄訳者代表、人文書院、一九六四年、八九頁。
(28)Charles Baudelaire, “Le Peintre de la vie moderne” (1863), in Œuvres complètes, II, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1976. 邦訳、シャルル・ボードレール「現代生活の画家」阿部良雄訳、『ボードレール全集(Ⅳ)』福永武彦編、阿部良雄訳者代表、人文書院、一九六四年。
(29)Émile Zola, “M. Manet” (7 mai 1866), in Mon Salon (1866), in Œuvres complètes, II, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 641. 邦訳、エミール・ゾラ「マネ氏」『ゾラ・セレクション(9)美術論集』三浦篤編、三浦篤・藤原貞朗訳、藤原書店、二〇一〇年、一〇二頁。
(30)Cited in Perruchot, Op. cit., p. 175. 邦訳、ペリュショ、前掲書、一五一頁に引用。
(31)Cited in Perruchot, Op. cit., p. 195. 邦訳、ペリュショ、前掲書、一六七頁に引用。
(32)Cited in Perruchot, Op. cit., p. 119. 邦訳、ペリュショ、前掲書、一〇二頁に引用。
(33)Cézanne, Correspondance, p. 113. 邦訳『セザンヌの手紙』七三頁。
(34)Cited in John Rewald, Cézanne: A Biography, New York: H. N. Abrams, 1986; reissue edition, New York: H. N. Abrams, 1996, p. 57.
(35)Cited in Rewald, Cézanne: A Biography, p. 57. 邦訳『セザンヌの手紙』七六頁に引用。
(36)Cézanne, Correspondance, pp. 114-115. 邦訳『セザンヌの手紙』七六頁。
(37)Rewald, Cézanne: A Biography, p. 58.
(38)Louis Leroy, “L’exposition des Impressionnistes,” Le Charivari (25 avril 1874), in Exh. cat., Centenaire de l’Impressionnisme, Paris: Grand Palais, 1974, p. 260.
(39)Loc. cit.
(40)Roger Ballu, “L’exposition des peintres impressionnistes,” La Chronique des arts et de la curiosité (23 avril 1877), in Exh. cat., Cézanne, Paris: Réunion des musées nationaux, 1995, p. 25.
(41)Anonyme, “L’exposition des Impressionnistes,” L’Événement (6 avril 1877), in Exh. cat., Cézanne, Paris: Réunion des musées nationaux, 1995, p. 25.
(42)Cézanne, Correspondance, p. 166. 邦訳『セザンヌの手紙』一二四頁。
(43)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 90. 邦訳『セザンヌの手紙』五八頁に引用。
(44)小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公叢書、一九七八年。
(45)Cézanne, Correspondance, pp. 160-161 . 邦訳『セザンヌの手紙』一一九頁。
(46)Cézanne, Correspondance, p. 164. 邦訳『セザンヌの手紙』一二二頁。
(47)Cézanne, Correspondance, p. 172. 邦訳『セザンヌの手紙』一二九頁。
(48)Cézanne, Correspondance, p. 175. 邦訳『セザンヌの手紙』一三二頁。
(49)Lettre de Camille Pissarro à Joris-Karl Huysmans (15 mai 1883), cited in Exh. cat., Cézanne, Paris: Réunion des musées nationaux, 1995, p. 28.
(50)Cited in John Rewald, Cézanne et Zola, Paris: A. Sedrowski, 1936, p. 112.
(51)Cézanne, Correspondance, pp. 216-217. 邦訳『セザンヌの手紙』一六八頁。
(52)Émile Zola, L’Œuvre (1886), in Œuvres complètes, XIII, Paris: Nouveau Monde, 2005, p. 49. 邦訳、エミール・ゾラ『制作(上)』清水正和訳、岩波文庫、一九九九年、九〇頁。
(53)Zola, L’Œuvre, in Œuvres complètes, XIII, p. 254. 邦訳、エミール・ゾラ『制作(下)』清水正和訳、岩波文庫、一九九九年、三一〇頁。
(54)Joris-Karl Huysmans, “Trois peintres: Cézanne, Tissot, Wagner,” La Cravache (4 août 1888), in Exh, cat., Cézanne, Paris: Réunion des musées nationaux, 1995, p. 28.
(55)Camille Pissarro, Lettres à son fils Lucien, présentées avec l’assistance de Lucien Pissarro par John Rewald, Paris: Albin Michel, 1950, pp.396-397. 邦訳『セザンヌの手紙』一九三‐一九四頁に引用。
(56)Pissarro, Lettres à son fils Lucien, p. 397. 邦訳『セザンヌの手紙』一九四頁に引用。
(57)Gustave Geffroy, Claude Monet: sa vie, son œuvre, Paris: Crès et Cie, 1924; Paris: Macula, 1980, p. 328. 邦訳、ギュスターヴ・ジェフロワ『クロード・モネ――印象派の歩み』黒江光彦訳、東京美術、一九七四年、二二六頁。
(58)Marcel Provence, Le Cours Mirabeau: trois siecles d’histoire 1651-1951, Aix-en-Provence: Éditions du Bastidon Antonelle, 1976, p. 296.
(59)Joachim Gasquet, Cézanne, Paris: Bernheim-Jeune, 1921, p. 54. 邦訳、ガスケ『セザンヌ』與謝野文子訳、岩波文庫、二〇〇九年、一四一‐一四二頁。
(60)Cézanne, Correspondance, p. 256. 邦訳『セザンヌの手紙』二〇一頁。
(61)Ambroise Vollard, Paul Cézanne, Paris: Galerie A. Vollard, 1914; édition revue et augmentée, Paris: G. Crès et Cie, 1919, p. 189. 邦訳、ヴォルラアル『セザンヌ』成田重郎訳、東京堂、一九四〇年、二四二頁。
(62)Cited in Cézanne, Correspondance, p. 275. 邦訳『セザンヌの手紙』二一六‐二一七頁に引用。
(63)レイモン・エスコリエの『マティス、この生ける者』(一九五六年)で公表された、マティスの発言。Cited in Henri Matisse, Écrits et propos sur l’art, Paris: Hermann, 1972, p. 84. 邦訳、マティス『画家のノート』二見史郎訳、みすず書房、一九七八年、九七頁に引用。
(64)一九二五年九月一五日付『アール・ヴィヴァン』誌第一八号で公表された、ジャック・ゲンヌとの対話におけるマティスの発言。Cited in Matisse, Écrits et propos sur l’art, p. 84. 邦訳、マティス『画家のノート』九一頁に引用。
(65)Cézanne, Correspondance, p. 300. 邦訳『セザンヌの手紙』二三六頁。
(66)Pissarro, Lettres à son fils Lucien, p. 388. 邦訳『セザンヌの手紙』一九二頁に引用。
(67)Pissarro, Lettres à son fils Lucien, pp. 388-390. 邦訳『セザンヌの手紙』一九二頁に引用。
(68)Vollard, Paul Cézanne, p. 102. 邦訳、ヴォルラアル『セザンヌ』一三八‐一三九頁。
(69)Cézanne, Correspondance, p. 324. 邦訳『セザンヌの手紙』二五九頁。
(70)Cézanne, Correspondance, p. 327. 邦訳『セザンヌの手紙』二六二頁。
(71)Cézanne, Correspondance, p. 292. 邦訳『セザンヌの手紙』二三〇‐二三一頁。

 本稿は、2012年3月に京都造形芸術大学大学院に受理された筆者の博士学位論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』の第1章を加筆修正したものである。
 同博士学位論文の邦文要約については、『セザンヌと蒸気鉄道』を参照されたい。
 また、同博士学位論文の英文要約については、「Cezanne and the Steam Railway (1)~(7)」を参照されたい。

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