第2章 印象派と大都市群集   秋丸 知貴

 印象派は、一体何を描いたのだろうか?
 この問題について、本章は近代技術による知覚の変容という観点から考察する。

  1 印象派について

 一般に、印象派は、一八六〇年代後半のフランスで、エドゥアール・マネ(Édouard Manet: 一八三二~一八八三年)の周囲に集まった、反体制的な新傾向の青年画家達、つまり、カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro: 一八三〇~一九〇三年)、エドガー・ドガ(一八三四~一九一七年)、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley: 一八三九~一八九九年)、(Paul Cézanne:一八三九~一九〇六年)、クロード・モネ(Claude Monet: 一八四〇~一九二六年)、ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir: 一八四一~一九一九年)、アルマン・ギヨマン(Armand Guillaumin: 一八四一~一九二七年)、ベルト・モリゾ(Berthe Morisot: 一八四一~一八九五年)、メアリー・カサット(Mary Cassatt: 一八四四~一九二六年)、ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte: 一八四八~一八九四年)等を指す。
 彼等は、自分達の新しい画風を認めない美術アカデミーが統括していた、当時唯一絶対の官設展覧会であるサロンに対抗し、一八七四年四月一五日にカピュシーヌ大通り三五番地のナダールの元写真館で、独自に最初の団体展を開催する。ところがこの時、従来広く賞賛されていたアカデミズムのルネサンス的リアリズムとは甚だしく異質な彼等の作風は、やはり専門画家のみならず一般大衆からも強く批判される。
 例えば、大衆紙『ル・シャリヴァリ』の記者ルイ・ルロワは、その会期中の展覧会評「印象派の展覧会」で、クロード・モネの《カピュシーヌ大通り》(一八七三年)を次のように嘲笑している。モネの《カピュシーヌ大通り》は二枚あり、ここで言及されている作品がどちらかは不明だが、両方ともカピュシーヌ大通りを行き交う大勢の人々を斑点描写したものである(図1・図2)。
 不幸なことに、私は軽率にも、彼を余りにも長く、同じ画家の《カピュシーヌ大通り》の前で立ち止まらせてしまった。「おお! おお!」と、彼はメフィストフェレスのように嘲笑った。「なかなか成功しているな、これは……! ここには印象(l'impression)がある、わしはよく知っているぞ……。ただ、絵の下の方のあの無数の黒いかすれは何を表しているのか、言ってもらえないかね?」「はい、これは歩いている人々です」と、私は答えた。「すると、わしがカピュシーヌ大通りを歩く時は、これに似ているのかね……? 頭に来る! 君は結局、わしをばかにしているな?」「本当ですとも、ヴァンサン先生……」「しかし、このシミは、噴水の花崗岩に漆喰を塗る方法で付けられているじゃないか。ポン! ポン! チョン! チョン! 勝手にしてくれ! 前代未聞だ、ゾッとする! わしはもう、脳卒中を起こしそうだ! (1)

図1 クロード・モネ 《カピュシーヌ大通り》 1873年


図2 クロード・モネ 《カピュシーヌ大通り》 1873年

 こうした大多数からの無理解にもかかわらず、彼等は自分達の新しい美意識を信じ、この時ルロワに綽名された悪名の「印象派」を自ら名乗るようになる。そして、それ以後ピサロ以外の参加者は流動しつつも、一八八六年まで合計八回の印象派展を敢行する。
 やがて、印象派は展覧会の回数を重ねる内に、徐々に若い世代の画家や観客を中心に支持を広げていく。その結果、印象派の影響は、後続の反アカデミズムの近代画派全てに波及したことは勿論、次第にアカデミズム自体の内部にまで浸透するようになる。そして、印象派の社会的評価が著しく上昇するにつれて、従来高く評価されていたルネサンス的リアリズムが美術の主流から激しく凋落したことはよく知られている。
 印象派の造形的特徴は、基本的には、《カピュシーヌ大通り》にその萌芽が見られる斑点描法としての「筆触分割」である。これは、マネの素早い筆致や平面的な彩色に感化を受けて、混色するほど明度と彩度の落ちる油絵具で、両方とも落とさずに対象の色彩を明るく鮮やかに表現するために、原色的な色斑を並置して離れて見た時に網膜上で視覚混合させるものであった。
 この「筆触分割」的斑点描写は、印象派に、従来のアカデミズム絵画とは比較にならない画面の明るさと躍動感をもたらす。しかし、同時にこの「筆触分割」的斑点描写は、素描の面では明確な輪郭線的形体描写を解消し、彩色の面では固有色の明暗による肉付表現を否定するために、その両者により高い自然主義的写実性を実現していた従来のルネサンス的リアリズムとは二重に相容れないものであった。そのため、「筆触分割」的斑点描写は、客観的再現性においてルネサンス的リアリズムに甚だ劣る粗野で未熟な手法と見なされ、このことが当初印象派が人々から厳しく非難された第一の理由であった。
 従来、こうした「筆触分割」的斑点描写の考案には、持ち運びが可能なチューブ入り油絵具の発明の影響が大きかったと言われている。つまり、それまでの暗い屋内での制作に代わり、初めて明るい太陽の下での屋外写生が可能になったことで、画家が外光の強烈で移ろいやすい視覚効果に興味を抱くようになり、その光の鮮明性と瞬時性への対応から原色的な色斑描写が発案されたと説明されてきた(2)。
 また、印象派の画題上の特徴は、旧来のアカデミズムが宗教画・神話画・歴史画等の空想的物語画を高尚で価値が高いと重視していたのに対し、それまで低俗で価値が低いと軽視されていた平素で世俗的な写生的風景画を好んで描く点にある。そして、そうした日常的な現実風景には、工場、蒸気鉄道、水辺行楽、大都市群集等の近代的で同時代的な画題が積極的に描き込まれることも特色であった。
 本章は、これらを補足し、印象派の「筆触分割」的斑点描写に大都市群集による知覚の変容の反映を指摘する。

  2 大都市群集について

 それでは、大都市群集による知覚の変容とは一体どのようなものだろうか?
 大都市群集は、一九世紀中期以後に台頭する。その成立背景には、「近代技術」としての蒸気機関による産業・商業・交通の発達がある。つまり、蒸気機関は、まず生産力を自然条件から解放して都市への集住を可能にすると共に、大量生産を実現することで商工業を飛躍的に発展させ、運輸面でも蒸気鉄道として人間・物品を広範囲から高速かつ大量に循環させる。これらの結果、機械的加速リズムによる「有機的自然の限界からの解放(3)」が社会全体に浸透し、自然な均衡状態を超過した近代的・脱自然的な大都市群集が出現する。
 例えば、ピエール=マクシム・シュールは『機械と哲学』(一九三八年)で、「都市では、蒸気力により、かつては川の流れに沿って分散していた工場の集中が可能」になり、「大量の農民が都市へ移住した」と言っている(4)。
 また、カール・マルクスは『共産党宣言』(一八四八年)で、「蒸気力と機械装置が工業生産を革命し」、「工場手工業の代りに近代的大工業が出現し」、それによる「世界市場」が「商業、航海、陸上交通に計り知れない発展をもたらした」と宣している(5)。
 さらに、ヴェルナー・ゾンバルトは『技術と経済』(一九〇一年)で、「運輸技術が、人間の密集を初めて可能にする。つまり、運輸技術が私達の近代的大都市の可能性を初めて創造した(6)」と告げている。
 まず、フランスでは一八世紀後半以後、蒸気機関に基づく「産業革命」が進展し、徐々に大量生産による商業活動が隆盛する。これに伴い、パリでは一九世紀前半に馬車が大衆化し、次第に従来の中世的な錯綜的隘路では交通混雑が発生する。これに一九世紀中期以降、蒸気鉄道の実用化が加わり、中央市場を中心とする物流の盛んな都心部では本格的に交通渋滞が慢性化する。
 これを解決することを目標の一つとして着手されたのが、第二帝政期のセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによるパリの都市改造(一八五三~一八七〇年)である(7)。事実、ヴァルター・ベンヤミンが『パサージュ論』で書き留めるように、オスマンはその建白書で、「今日、鉄道駅はパリの主要な玄関である。それらと都心を、太い動脈で連結することが何よりも必要である(8)」と主張している。なぜなら、「毎日、蒸気鉄道はパリに乗客の急流を放出していたが、彼等は家を得ることも曲がりくねる道を往来することもできなかった(9)」からである。
 結果的に、パリでは、エトワール凱旋門からシャンゼリゼ大通り等の一二本の大通りが放射状に開通すると共に、大小無数の街路が整理され、市内の六つの鉄道駅との連絡路も整備される(図3・図4)。なお、先述のカピュシーヌ大通りも、この都市改造時の産物であり、近隣には主要な鉄道駅の一つであるサン・ラザール駅が位置していることを付言しておこう。


図3 エドガー・ドガ 《コンコルド広場》 1876年頃


図4 ギュスターヴ・カイユボット 《パリの通り、雨の日》 1877年


  3 大都市群集の心理

 こうして、交通事情が大幅に改善された大都市の大通りでは、商工業の増加と交通量の増大により大都市群集が誕生する。
 これに関連して、ゲオルク・ジンメルは「大都市と精神生活」(一九〇三年)で、大都市群集について次のように考察している。
 大都市的な個性の様式を生じさせる心理学的基礎は、神経生活の昂揚であり、これは外的及び内的な印象の急速で間断なき変化から生じる。人間は、区別する存在である。つまり、彼の意識は、目下の印象を先行する印象と区別することで刺激される。持続する印象、差異の微々たる印象、進行や対立が通常の規則性を持つ印象は、急速に変化し密集する表象、一瞥で把握する内の著しい相違、予期せずに押付けられる印象に比べて、いわば意識の消費が少ない。大都市は、正にこうした心理学的条件を作り出すことで――街路上のあらゆる往来により、経済的、職業的、社会的な生活の速度と多様性により――既に心的生活の感覚的基礎において、つまり区別する存在としての私達の組織のために大都市が要求する意識量において、小都市や田舎の生活とは深い対立を生み出している。後者には、その感覚的・精神的な生活表象に、より遅く、より慣れた、一様に流れるリズムがあるからである(10)。
 ジンメルによれば、「神経刺激」が「急速に変化し対立し密集す」る「大都市」では、「無害な印象」でさえ「その変化の急速性と対立性」により「神経から反応を非常に暴力的に強奪」し、「神経を非常に乱暴にあちこちに引き裂く」ので、「神経はその最後の余力まで使い果た」し、「同じ境遇のままでは新しい力を蓄える時間も持つことができない」。その結果、「新しい刺激に適切な活力で反応できないという無能力」による「怠慢」が生じる(11)。
 この「怠慢」により、「大都市人相互の態度」としての「疎遠」も生まれる。なぜなら、小都市では「人々は出会う人をほとんど全て知っており、誰に対しても積極的な関係を持つ」が、もし大都市で「小都市と同様に、無数の人々との絶え間ない外的な接触に非常に厖大な内的反応で応えねばならない」とすれば、「人は内的に完全に原子化し、全く想像も付かない心的状態に陥る」からである(12)。この場合、「空間的に近くにいる人々に対する無関心は端的に保護装置であり、これ無しには大都市では人は心的に磨り潰され粉々にされるだろう(13)」。
 ところが、この「隠れた嫌悪の倍音」さえ伴う「疎遠」が、新たに「大都市の非常により一般的な精神的存在の形式あるいは衣装」として定着すると、次第にそれは「個人」に、「他の状況では全く比類の無いある種の一定の個人的自由」を付与することになる(14)。

  4 大都市群集の人間関係

 こうした大都市群集の疎遠的人間関係が最も顕著に現れるのが、目である。
 まず、ゲオルク・ジンメルは『社会学』(一九〇八年)で、「目」は「相互の見つめ合い」により「個人間の結合と相互作用」をもたらし、これは「一般に存在する最も直接的で最も純粋な相互関係である」と述べている。なぜなら、主体が客体の目を見つめる時、同時に客体も主体の目を見つめるのであり、目が口ほどに物を言う以上、両者は互いに内面を明らかにせざるをえず、「人間関係の全領域における最も完全な相互性が生み出される」からである(15)。
 これを受けて、アーヴィング・ゴッフマンは『公共の場における振舞い』(一九六三年)で、「目の見つめ合い」は、「諸個人が相互に特別な意志疎通の許可を与え合い、特殊な相互作用を持続す」る、「焦点の合った相互作用」の一つと説いている。そして、「目の見つめ合い」が「対面関与」としての「出会い」の「開始を要求する意思疎通手段」である以上、もし「出会い」を「避けようとする」ならば「アイ・コンタクト」は「阻止されねばならない」。ここで現れるのが、「傍観者」的な「市民的無関心」である(16)。
 これらを受けて、ジグムント・バウマンは『社会学的に考える』(一九九〇年)で、この「アイ・コンタクトの回避に最も顕著に体現され」る「市民的無関心」こそが、「都市での生活」、つまり「見知らぬ人達の間での生活を可能にする最重要の技術である」と論じている(17)。
 大都市の「万人が見知らぬ人である状態」は、他者の不愉快で苛立たせる監視や干渉からの解放を意味する。他者は、より小規模でより個人的な状況でなら詮索や世話を焼くことが許されると感じるだろう。今や、人はプライヴァシーを無傷に保ったまま公共空間に留まることができる。市民的無関心が万人に適用されることで達成される「道徳的不可視性」は、異なる条件下では考えられない自由な領域を提供する。万人が市民的無関心の不文律に従う限り、人は比較的邪魔されることなく都市を動き回ることができる。それにより、新しい興味をそそる心地良い印象の量が増大する(18)。

  5 大都市群集の詩学

 実際に、大勢が足早かつ無関心に行き交う大都市群集では、歩行者は通行人の目を見つめても、相手と親密で持続的な情緒的相互交流を経験することはない。つまり、大都市群集では、通行人相互の関係は極めて瞬時的で表層的になる。
 これに関連して、ポール・ヴィリリオは『負の地平線』(一九八四年)で、「交通革命により、隣人は偶然にしか出会うことのない『幽霊』になる」と表現している。つまり、「交通網整備」が「他者の束の間の現前」を引き起こす結果、「他の同胞の肉体的現前は現実感を失い、通行人に、すなわち通りすがりの人になる」(19)。
 こうした大都市群集における共感的交流の欠如は、従来の古い知覚の持主には非常に不快である。
 例えば、フリードリヒ・エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五年)で、大都市群集を次のように嫌悪している。
 実に、街路の雑踏は不快なもの、人間本性に反するものを持っている。これら数十万人は、あらゆる階級と階層からなり、街路を互いに犇めき合って通過する。彼等は皆、同じ資格と能力を持ち、幸せになるという同じ関心を持つ人間ではないのか? 〔…〕それなのに、彼等はまるで共通するものを何も持たず、共に為すべきものを何も持たないかのように、互いに通過するだけである。〔…〕他人にも、一瞥しか敬意を払わない。非人間的な無関心、私的利害への各個人の非情な孤立は、これら諸個人が小さな空間に密集すればするほど一層不快な苦痛として現れる。そしてまた、こうした個人の孤立、こうした偏狭な利己心が、どこでも私達の現代社会の基本原理であることは分かっていても、それが正にこの大都市群集においてほど厚顔無恥かつ自覚的に現れる場所は他にない(20)。
 これに対し、徐々にこうした大都市群集における刹那的な人間関係に、むしろ魅力的な詩情を見出す新しい世代が登場する。
 例えば、ヴァルター・ベンヤミンは「パリ――一九世紀の首都」(一九三五年)で、「ボードレールにおいて、初めてパリが抒情詩の対象になる」とし、これは「郷土文学では全くな」く、「都市を捉える寓意詩人のまなざし」は「疎外された人のまなざし」であると説明している(21)。
 また、ベンヤミンは『パサージュ論』で、ボードレールの「『通りすがりの女に』のようなソネット、このソネットの最終行のような一行は……人々が共に、互いに見知らぬ人として生き、互いに傍に居ながら旅行者として生きる、大都市の環境でしか開花しえない(22)」というアルベール・ティボーデの言葉を引用し、「ボードレールにおける幾つかの主題について」(一九三九年)で、「このソネットが提示するのは、ショックの形象、いや一つの破局の形象である(23)」と解説している。
 実際に、シャルル・ボードレールは『悪の華(再版)』(一八六一年)所収の「通りすがりの女に」で、大都市群集を次のように詠っている。
 街路は僕の周りで、耳を聾するほど喚いていた。
 背の高い、細身の、喪服を纏った、悲痛で荘重な、
 一人の女が通り過ぎた、 優雅な片手で
 花綱模様の裾を、摘んで揺らしながら。

 俊敏で気高い、彼女の足は彫刻のよう。
 僕、この僕は飲んだ、狂人のように引き攣りつつ、
 彼女の目の中に、鉛色の空が嵐を兆すのを、
 魅惑する甘さを、命を奪う喜びを。

 閃光……そして夜! ――束の間の美女よ
 そのまなざしは僕を不意に生き返らせたのに、
 もはや永遠の中でしか、君に会えないのか?

 彼方、ここから遥か遠く! 遅過ぎる! 多分決して
 なぜなら、僕は君の行先を知らず、君は僕の行先を知らない、
 ああ 僕は君を愛したのに、ああ 君はそれを知っていたのに!(24)

  6 大都市群集による知覚の変容

 こうした「見つめ合い」から始まる親交に対する自然な期待が裏切り続けられると、徐々に被害者の内面には、無視や無関心に対する一種の耐性が生じる。やがて、この土着的束縛から解放された自由な匿名性の下で、透明人間的窃視症の快楽を謳歌する都会人さえ出現するだろう。
 これに関連して、ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」(一九三五‐三六年)で、「市民階級の堕落」においては「社会的態度の一変種としての注意散漫」が生じると示唆している(25)。
 また、コンスタンティン・ペクールは『社会経済』(一八三九年)で、「人々が大勢集まる所とか、蒸気鉄道や蒸気船の快活な旅行者集団では、人の感情は、厖大な数の事物や人々に注がれ、結果的に個々の場合には集中や持続を弱めがちである。このことは移り気を奨励し、多様性に対する昂奮を創出する(26)」と考察している。
 さらに、ポール・ヴァレリーは「オランダからの帰路」(一九二六年)で、「群集の人は、歩行者の大群に没入する。彼は、数限りない顔と目を吸収することに陶酔し、街路の流れに沿って個人の無限の通過に眩暈を感じることに陶酔する……。彼は、幾千もの足と歩行のリズムを受容し混合する。彼の目は、幾千もの目を見出し見失う(27)」と洞察している。
 そして、ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、「大都市の往来の中を移動することは、個々人にとって一連のショックと軋轢を生み出す。危険な交差点では、バッテリーの衝撃のように、神経刺激の伝達が次々と体を貫く。ボードレールは、電流の貯蔵庫に飛び込むように、群集に飛び込む男について語っている。すぐ後で、彼はこの男を『意識を備えた万華鏡』と呼ぶが、これはショックの経験の言い換えである(28)」と読解している。
 事実、シャルル・ボードレールは「近代生活の画家」(一八六三年)で、大都市群集を次のように讃している。
 群集が彼の領域であることは、空気が鳥の領域、水が魚の領域であるのと同様だ。彼の情熱と彼の職務、それは群集と結婚することだ。完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、うねりの中に、運動の中に、移ろいやすいものの中に、無限なものの中に住いを定めることは、莫大な悦楽である。我が家の外に居ながら、どこでも我が家のように感じること。世界を見ながら、世界の中心に居ながら、世界から隠れたままでいること。こうしたことが、この独立した、情熱的な、偏見なき精神のささやかな喜びの幾つかであるが、これらは言葉では不器用にしか定義できない。観察者は、至る所にお忍びを楽しむ王侯である。〔…〕こうして普遍的な生の愛好者は、電流の厖大な貯蔵庫に入るように群集に入っていく。人はまた彼を、この群集と同じほど膨大な鏡に喩えることもできる。つまり、その運動の度ごとに、生の多様性を、生のあらゆる要素の動的な魅力を表象する、意識を備えた万華鏡に(29)。
 また、ボードレールは『パリの憂愁』(一八六九年)所収の「一二 群集」でも、大都市群集を次のように賞賛している。
 群集で沐浴することは、誰にでもできることではない。つまり、群集を楽しむことは一つの芸術である(30)。
 このように、歩行者相互の関係が非常に流動的になり、個々の通行人が単なる束の間の視覚印象に過ぎなくなると、観者には、次第に視界に入る莫大な目まぐるしい視覚印象全てと同時に向き合う新しい知覚が生じる。この本来全く異なる諸対象を区別なく一つの全体として受容する、具象的奥行の減退した動態的・疎外的・平面的・一望的知覚を、ヴォルフガング・シヴェルブシュは『鉄道旅行の歴史』(一九七七年)で、「パノラマ的知覚(31)」と呼称する。
 こうした大都市群集による知覚の変容は、観者自身が大都市群集の中で歩きつつ通行人と行き交う時に最も顕著であるが、観者が大都市群集の中で立ち止まって通行人を眺める時、さらに観者が大都市群集の外で立ち止まって通行人を眺める時にも、通行人の刹那性と大量性による注意散逸によりそれぞれ生じる。こうした大都市群集による抽象的都市風景について、ベンヤミンは「パリ――一九世紀の首都」で、「群集はヴェールであり、見慣れた都市は幻景(ファンタスマゴリー)と化して、このヴェール越しに遊歩者を呼び寄せる(32)」と注釈している。
 実際に、エドガー・アラン・ポーは「群集の人」(一八四〇年)で、大都市群集を次のように書いている。
 この街路は、ロンドンの主な大通りの一つで終日混雑していた。しかし、日が暮れるにつれて雑踏は刻々と増加し、街灯が照り映える頃には、二筋の密集した絶え間ない人々の流れが店前を駆け抜けていた。この特殊な夕刻に、同様の状況で居たことは、これまで一度もなかった。そのため、騒然とした人頭の波は、私を美味な新奇の感動で満たした。私はとうとう、室内の物事への注意を全く止め、窓外の光景の観賞に没入していた(33)。
 また、イポリット・テーヌは『知性論』(一八七〇年)で、大都市群集を次のように記している。
 あなたがエトワール凱旋門に登り、下方のシャンゼリゼ大通りを眺める時、あなたが見るのは、車道や歩道を動き回っている黒色や多様な色の斑点の数々である。あなたの目は、それ以上は何も見分けない(34)。
 さらに、エミール・ゾラは『制作』(一八八六年)で、大都市群集を次のように描いている。
 緑の並木で縁取った二つの歩道を両側に持つシャンゼリゼ大通りは、目の霞む遥か遠方の高みまで一直線に伸び、無限に向かって口を開けた巨大な凱旋門に達していた。〔…〕眼前の広場は、大河が流入する湖のように、広大な歩道や車道から絶え間なく続く波に溢れ、馬車はあらゆる方向に放射状に駆け抜け、群集は黒い斑点となって躍動している(35)。
 そして、ジェイムズ・ジョイスは『ダブリン市民』(一九一四年)で、大都市群集を次のように表している。
 日曜日の休息のためにシャッターが下りた街路には、華やかな色彩の群集が溢れていた。発光する真珠のような街灯が、高い柱の頂きから下の人間模様を照らし出していた。その人間模様は、形と色を絶え間なく変え、暖かい灰色の夕暮の風の中に、変わることのない、絶え間ないざわめきを送っていた(36)。

  7 大都市群集による自意識の変容

 さらに、こうした大都市群集によるパノラマ的知覚は、単純に主客を疎外するのではなく、主体の透明化を通じて客体との同化幻想を生じさせる。その結果、歩行者には、徐々に自他の差異も、他他の差異も解消し、大都市群集は一つの溶解的な運動体として感受される。こうした主客融合は、次第に大都市群集の構成員それぞれに、いわば母子一体的な無上の幸福感を享受させるに至るだろう 。
 例えば、今村仁司は『群衆――モンスターの誕生』(一九九六年)で、「群衆はあらゆる人間の個別的差異がすべて溶けて消え去る場所である(37)」と強調している。
 現に、シャルル・ボードレールは『パリの憂愁』所収の「一二 群集」で、大都市群集に次のように溶け込んでいる。
 群集(マルティテュード)と孤独(ソリテュード)。行動的で多産な詩人には、同等で置換可能な言葉である。自らの孤独を賑わす術を知らない者は、もはや忙しい群集の中でも個体でいるしか能がない。詩人は、この好むままに自分自身にも他人にもなれる比類無き特権を楽しむ。肉体を求めて彷徨う魂のように、彼は望む時に誰の人格にも入り込む(38)。
 また、ボードレールは同じ詩で、大都市群集に次のように陶酔している。
 孤独で思索的な散歩者は、この普遍的な一体感から特異な陶酔を引き出す。群集とたやすく結婚する者は、金庫のように閉ざされた利己主義者や、軟体動物のように殻に閉じ籠った怠け者には永久に味わえない、熱狂的な悦楽を知っている。彼は、その時々に自らに提示される、あらゆる職業、あらゆる歓喜、あらゆる悲惨を、自分のものとして取り入れる。人間が愛と名付けるものは、予期せず姿を現す人に、通りすがりの見知らぬ人に、詩情も慈愛も自らの全てを完全に捧げる、この筆舌に尽くせぬ饗宴に、この魂の聖なる淫売に比べれば、実に小さく、実に限られていて、実に弱々しい(39)。
 さらに、ジュール・ロマンは『一体生活』(一九〇八年)所収の「何事も内的であることをやめない」で、大都市群集に次のように一体化している。

街路は霧のためにより親密である。
ガス灯を包む空気全体に火が灯る。
どんな物にも光が当たっている。そして私は見る
長い街路全体が同時に存在するのを。
人々の形態と生命は溶けてしまった、
そして魂は心地良く服従した。
私はこの夕べほど自由でなかったことは決してない
また孤独でなかったことも決してない。通行人が向こうの歩道で、
動き回り、通り過ぎるのは、私の外では全くない。
小声でも彼は私の話声を聞き取るだろう、
私も彼の思考を聞き取る。なぜなら彼が居るのは他でもなく
私の内だから。彼の動きは私には内的である。
そして私も彼の内に居る。同じ躍動が私達を押し進める。
彼のどんな身振りも私に震動を与える。
私の肉体は都市のざわめきである(40)。

  8 印象派と大都市群集

 こうした大都市群集による知覚の変容を絵画的に造形化する画法こそ、正に個々の色斑から画面全体を構成する、印象派の「筆触分割」的斑点描法である。
 例えば、ヴァルター・ベンヤミンは「ボードレールにおける幾つかの主題について」で、印象派と大都市群集について次のように分析している。

 多分、躍動する群集という日常風景は、かつては珍しい奇観(シャウスピール)であり、目はまずそれに適応しなければならなかった。これが一つの推測として認められるならば、次の推定も不可能ではない。つまり、この課題を克服した後の目には、自分が新たに獲得した能力を確かめる機会は歓迎されないものではなかろう。そうであれば、色斑の騒乱で画面を作り出す印象派の絵画手法は、大都市住民の目に親しくなった経験の一つの反映であろう(41)。
 また、アーノルド・ハウザーは『芸術と文学の社会史』(一九五三年)で、印象派と大都市群集について次のように解読している。
 技術の進歩と結び付いている最も顕著な現象は、各文化的中心地が、今日的意味で大都市に発展したことである。大都市こそ、新しい芸術が根差す土壌をなしている。印象派は、優れて都市的芸術である。それは、印象派がただ単に風景としての都市を発見し、絵画を田舎から都市に引き戻したからだけではなく、印象派が世界を都会人の目で見、近代の技術的人間の極度に緊張した神経で外界からの印象に反応したからでもある。印象派は、都市的様式である。なぜなら、印象派は、都市生活の移ろいやすさ、神経質なリズム、突発的で鋭いが直にまた消え去る印象を描くからである(42)。
 さらに、ハウザーは同著で次のように続けている。
 人々が犇めき合い混雑している大都市が、この内的で、個人の独自性と孤独性の感情に根差す芸術を生み出したことは、一見意外に思われるかもしれない。しかし、周知のように、余りにも多数の人々が密集していることほど人を孤立させることはなく、見知らぬ人々の大群においてほど孤独で見捨てられていると感じることはない。そうした環境での生活がもたらす二つの根本感情、つまり、一方では誰からも注目されず独りでいるという感情と、他方では猛烈な往来、絶え間ない運動、不断の変化という印象が、最も繊細な気分と、最も急速に変化する感覚を結び付ける、印象派的な生活感情を創出したのである(43)。
 事実、エルネスト・デルヴィリは一八七四年四月一七日付『ル・ラペル』紙で、クロード・モネの《カピュシーヌ大通り》を、「パリ生活の喧騒と万華鏡を限りない優雅と才気で描き出した、日に照らされた大通りの眺め(44)」と誉めている。
 また、エルネスト・シェスノーは一八七四年五月七日付『パリ・ジュルナル』紙で、「これまで、この目録上で《カピュシーヌ大通り》と題された並外れた驚嘆すべき粗描ほど、公道の驚くべき活気、アスファルト上の群集と車道上の車の喧騒、埃と光の中の大通りの並木のさざめき、その捉えがたく移ろいやすい瞬間的な動きを、その驚くべき流動性のままに把握し描出した作品は決してなかった(45)」と称えている。
 さらに、ギュスターヴ・ジュフロワは一八八三年三月一五日付『ラ・ジャスティス』紙で、「モネは、《カピュシーヌ大通り》で群集の印象を伝えようとしている。この《大通り》は、モネ氏の絵画の典型として長らく批評家達に扱われてきた。幸いなことに、群集を描くことは、一人の肖像を描くことと同じではないことが次第に理解されてきている。モデルの容貌や、顔立ちの個人的特徴を再現するために用いられる正確な描写は、家々が密集し、馬車が相互に交錯し、歩行者が流動する、このような場所には適用できない。ここでは、一人の人間や一台の馬車を見分ける時間はなく、そうした細部に拘泥する画家は、この全体を構成する斑点の溶け合う運動や多様性を把握できないだろう。クロード・モネ氏は、この種の過ちを犯さない。彼の絵画は、自らを生み出したパリ光景と同様に生き生きとしていて休息しない(48)」と評価している。
 そして、アウグスト・ストリンドベリは、一八九五年二月一八日付ポール・ゴーギャン宛書簡で、「私達は、非常に美しい絵画を見て、その大半にマネやモネの署名がありました。しかし、私はパリでは絵を見るより……すべき他の事があったので、この新しい芸術を穏やかな無関心で一瞥しただけでした。ところが、次の日、なぜかよく分からないのですが、私は戻ってきて、それらの奇妙な主張に『何か』を見出しました。私は、波止場に人々がざわめくのを見ましたが、群集自体は分かりませんでした。〔…〕私は、これらの並外れた絵画に心奪われ、祖国の新聞に報告を送ったのです(46)」と述べ、その一八七六年一月三〇日付新聞記事で、「モネは、波止場にざわめく群集ではなく、その群集のざわめきを描きたかったのだ(47)」と評言している
 実際に、印象派(及びその先輩のエドゥアール・マネ)には、こうした大都市群集を「筆触分割」的斑点描法で描出する作品が数多く実在する(図5・図6・図7・8・図9・図10・図11)。特に、マネの《フォルクストーン・ボートの出発》(一八六九年)(図6・図7)や、カミーユ・ピサロの《魚市場の蒸気機関車、ディエップ》(一九〇二年)(図8)、《ル・アーヴルの突堤、大西洋線「ロレーヌ号」の出発、午後、曇》(一九〇三年頃)(図9)等は、蒸気船や蒸気鉄道が直接大都市群集と関係していることを如実に示唆している点で注目に値する。
 なお、印象派と大都市群集の親和性を示す一つの事例として、このモネの《カピュシーヌ大通り》(一八七三年)が描かれた場所と伝えられるカピュシーヌ大通りのナダールの元写真館が、翌年に「第一回印象派展」の会場となっていることを付記しておこう(49)。


図5 クロード・モネ 《サン・ジェルマン・ロクセロワ》 1867年


図6 エドゥアール・マネ 《フォルクストーン・ボートの出発》 1869年


図7 エドゥアール・マネ 《フォルクストーン・ボートの出発》 1869年


図8 カミーユ・ピサロ 《魚市場の蒸気機関車、ディエップ》 1902年


図9 カミーユ・ピサロ 《ル・アーヴルの突堤、大西洋線「ロレーヌ号」の出発、午後、曇》 1903年頃


図10 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《大通り(グラン・ブールヴァール)》 1875年


図11 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《クリシー広場》 1880年

 何よりもまず、パリに上京したばかりのクロード・モネ自身、一八五九年六月三日付ユジェーヌ・ブーダン宛書簡で、「この目の眩むようなパリ(50)」と表現している。
 また、カミーユ・ピサロは、一八九七年一二月一五日付息子リュシアン宛書簡で、カピュシーヌ大通りに連続するオペラ大通りの大都市群集を次のように賛美し、それを《テアトル・フランセ広場とオペラ大通り、冬、陽光の効果》(一八九八年)(図12)等で大量に描いている。
 非常に美しいので描いている! これは多分余り美学的ではないが、私はこのパリの街路を描けることに魅了されている。この街路を、人々は醜いと言うのが習慣だが、しかしとても銀色に輝き、光と活気に溢れている(51)。

図12 カミーユ・ピサロ 《テアトル・フランセ広場とオペラ大通り、冬、陽光の効果》 1898年

 さらに、モネやピサロを始めとする印象派と親交の深かったナビ派のピエール・ボナールも、一九四六年の対話で、サン・ラザール駅に接続するペピニェール通りの大都市群集を次のように讃美し、《パリの朝》(一九一一年)(図13)等で大都市群集を大量に画題化している。
 彼等は、生命の脈動であり、正に汽車の運動の継続です。この映像を見て下さい。巣箱の蜂のように鉄道駅から出てくる労働者の大群を見るのは、何と魅力的な見もの(スペクタクル)でしょう……(52)。

図13 ピエール・ボナール 《パリの朝》 1911年

 これに加えて、同様の大都市群集的知覚は、エドゥアール・マネの描く人物達の多くが、登場人物相互や鑑賞者との間で視線が微妙に結び合わないことにも観取できる。特に、《フォリー・ベルジェールの酒場》(一八八二年)(図14)では、前景中央の女性は意識せざるをえないほど間近な位置にいるにもかかわらず鑑賞者から微かに視線を外し、それが右背後の顔を寄せ合う鏡像らしき男女の姿で強調され、さらにそれらの背後に映る二階席の大勢の人々は明瞭な輪郭を失い斑点描法的に一体化している。ここでは、前景から後景へ一貫して大都市群集的知覚が連続しているところに、マネの近代的な都会的感受性を看取できる(なお、この作品には近代照明による心性の変容も反映していることは第9章を参照されたい)。


図14 エドゥアール・マネ 《フォリー・ベルジェールの酒場》 1882年

 これに関連して、マーシャル・マクルーハンは『メディアの法則』(一九八八年)で、「群集では、誰もが誰でもない。群集は、仮面である(53 )」と指摘している。
 そうした疎遠的で疎外的な大都市群集的知覚は、ベンヤミンが「ボードレールにおける幾つかのモティーフについて」で「群集における規律と野蛮の拮抗を倦むことなく描いた(54)」と紹介する、表現派のジェームズ・アンソールの底意の知れない不気味な仮面を被る群集にも観取できる。特に、《キリストのブリュッセル入城》(一八八九年)(図15)では、一見古い宗教画の体裁を取りつつ、実際には非常に近代的な都市的感受性を表現している点が興味深い。


図15 ジェームズ・アンソール 《キリストのブリュッセル入城》 1889年

 また、表現派のエドヴァルド・ムンクは、一八八九年に大都市群集について、「私は再び、緑のイタリア大通りに出た――輝く電灯、薄暗いガス灯――電灯の下で、幽霊のように見え隠れする何千もの見知らぬ顔、顔(55)」と述懐し、仮面を被ったような大都市群集が往来する《カール・ヨハン通りの夕べ》(一八九二年)(図16)を制作している。


図16 エドヴァルド・ムンク 《カール・ヨハン通りの夕べ》 1892年

 さらに、表現派のエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーも、《都市、ドレスデン》(一九〇八年)(図17)や《街路》(一九一三年)(図18)等で、黒目が塗り潰され仮面のように表情の読めない大都市群集を描いている。そして、同じく表現派のエミール・ノルデが、この時期に《仮面Ⅲ》(一九一一年)(図19)等で、まるで生きているような仮面を大量に画題化しているのも同様の大都市群集的知覚の一種の寓意表現と推定される。
 そうであれば、従来制作態度における受動と能動という点で全く正反対の画派と言われてきた印象派(Impressionism)と表現派(Expressionism)が、実際には大都市群集的知覚という新しい日常的現実に鋭敏な反応を示す点では共通する近代的感受性を有していたことを指摘できる。少なくとも、印象派も表現派も、抽象的で脱自然的な大都市群集の魅惑を描き出そうとする過程で、共に抽象的で脱自然主義的な絵画表現を推し進めたことは確かである。(ただし、全体的に印象派は楽観的な調子が強いのに対し、表現派は悲観的な調子が強いという違いはある。これには、時代の推移に加えて、フランスと北方という風土的要素の差異も働いているかもしれない)。


図17 エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー 《都市、ドレスデン》 1908年


図18 エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー 《街路》 1913年


図19 エミール・ノルデ 《仮面Ⅲ》 1911年

 これに加えて、近代都市では、感覚刺激の強烈性と大量性による知覚の変容は視覚のみならず聴覚においても複合的に発生する。そして、都市風景における鉄道・自動車・飛行機等の移動機械の増加もまた、その高速性と大量性によりそうした大都市群集による知覚の変容を一層強化する。
 例えば、ラズロ・モホリ=ナギは『絵画・写真・映画』(一九二五年)で、近代技術による抽象的都市風景について次のように触れている。
 技術的大都市の目覚ましい発展により、私達の受け入れ器官は同時的な聴覚と視覚の機能の受け入れ能力を大きくした。すでに日常生活においてその実例が存在する。ベルリン市民がポツダム広場を横切る場合。彼らは話し合っており、同時に聞く:
 自動車のクラクション、路面電車のベル、乗合自動車の警笛、乗合馬車の呼び声、地下鉄のゴーッという唸り、新聞の売り子の叫び声、拡声器の音など。
 そして、これらの種々な聴覚的印象を区別できる。これに対して、ついこの間この広場で多量の印象で打ちのめされた一人の地方人が非常にうろたえ、近づいてくる路面電車の前でまるで根が生えたように立っていた。視覚的体験についても類似した事例が成立することは、明々白々である(56)。
 また、ル・コルビュジエはA・オザンファンとの共著『近代絵画』(一九二五年)で、近代技術による抽象的都市風景について次のように言及している。
 感覚現象そのものは、その生な、まじりけのない現象としてとりあげて考えられるかぎり、万人に普遍的なものである。しかしながら、われわれの生活状態の外部的環境のさまざまの変化が深くこれに作用を及ぼしているということを許容しなければならない。したがって、この場合、外部的環境はわれわれの視覚の基本的な諸性質の上に作用を及ぼすものではなくして、ただ、われわれの視覚の強度や機能上の速度に、また視覚のものに対する浸透性、視覚がものを記録する能力の発展、さらに以前には知られなかったさまざまの光景に対する視覚の包容力と言ったものの上に働きかけるのである(さまざまの光景の頻繁急迫度、さまざまの激烈な化学的色彩の発明に基づく新しい関係の上にたつ新しい諸色彩の階梯、等々)。ちょうど耳の教育のごとく、眼の教育というものがある。田舎者は、パリに着くや、たちまち彼を襲うさまざまの音響の強烈性、多種多様に魂をつぶす。と同時に、まったく慣れない速度で眼に入れていかねばならぬさまざまの光景、しかもその呈する外観上の不調和、混乱に目をまわす(57)。
 実際に、表現派のヴァシリー・カンディンスキーは一九三三年一〇月三一日付の書簡で、パリの都市風景について次のように報告している。このことから、カンディンスキーが大都市群集的知覚に鋭敏な感受性を持っていたことは確かであり、彼の抽象絵画にそうした近代技術による抽象的都市風景が反映している可能性は皆無ではない。

 数々の印象、一日中歩き回り、目茶苦茶な市街交通、騒音、あわただしさ、ベンジンの臭い、息苦しい地下鉄、ぎゅうぎゅう詰めのバス。《急げ!》 奇妙な印象を受けたのは、フランス人自身は、見たところ、急げ、ということに気がついていないことです――彼らは、落ちついて寛いだ様子で、街通りを(そして道路を横切って)歩いて行くのです。あたかもただ何となく散歩し、用事などないかのように。私たちは、いつも私たちベルリンのテンポにブレーキをかけねばなりませんでした。乗り物は、しかし同時に、それこそありとあらゆる方向に向かって驀進しているのです(58)。
 以上のように、近代技術は大都市群集を生む。そして、その大都市群集による知覚の変容の絵画的反映の一つが、印象派の「筆触分割」的斑点描法である。
 より正確に言えば、印象派の「筆触分割」的斑点描法、つまり原色的色斑の並置による独特な画面の明るさと躍動感は、チューブ入り油絵具が可能にした屋外写生における外光の鮮明性や瞬時性への関心と共に、近代的大通りにおける刹那的で流動的な万華鏡的視覚印象に適応した大都市群集的知覚等が、相互に作用し合って成立したものと推定できる(59)。その意味で、そうした「筆触分割」的斑点描法を用いる画派の呼称が、最終的に「印象派」として定着したことは直感的に非常に妥当である(60)。
 そうであれば、もし印象派の画家達が田園の牧歌的な《積藁》等を描く場合でさえ、その視覚と画法は既に都会的かつ近代的に精練されていることに留意したい。この文脈でこそ、晩年のモネが自分の制作態度を回想した一九二六年六月二一日付エヴァン・シャルトリ宛書簡の次の言葉も理解されるべきである。
 私は、常に理論を嫌ってきました。結局私には、最も移ろいやすい効果を前にした自分の印象を描こうとして、直接自然の前で描いたという功績しかありません(61)。
 ジョルジュ・フリードマンは『力と知恵』(一九七〇年)で、「大衆社会の人間は群集の中に生きており、『余暇』の間に自分が群集から逃れたと信じている時でさえ群集と再会する(62)」と指摘している。
 また、萩原朔太郎は「群集に關する小エツセイ」(一九三一年)で、「都會人の生活は、常に群集の中にのみ調和されてる。街路に於ても、劇場に於ても、電車の中でも、百貨店の中でも、彼等は常に群集と共に生活し、群集と共に享樂し、群集の浪の中を泳いで居る(63)」と主張している。
 そうであれば、大都市群集による知覚の変容が一般化するにつれて、その反映である印象派は、たとえ当初どれだけ厳しく酷評されても、いずれ人々からその絶対的現実感を支持されるだろう。そして、そうした印象派の「筆触分割」的斑点描法は、必ず後続の近代画家達の基礎的な絵画文法となるはずである(64)。
 同時に、この動態的・抽象的な大都市群集という新しい日常的現実は、従来の静態的・具象的なルネサンス的リアリズムでは本質的に的確に描写することができない。もし敢えてそれを試みようとすれば、まるで激しく運動しているものが凍りついて凝固しているような奇妙な印象を与えてしまうだろう(図20)。その違和感を解消しようとする力学こそが、近代主義(モダニズム)の美意識に他ならない。その意味で、大都市群集的知覚が常態化するにつれて、次第にルネサンス的リアリズムが旧来の権威を喪失し、絵画の主流から急激に没落したことには確かに歴史的必然性を確認できる。


図20 ジャン・ベロー 《カピュシーヌ大通りとボードヴィユ劇場》 1889年




 引用は適宜、既訳のあるものは参考にして拙訳している。
(1)Louis Leroy “L’exposition des Impressionnistes” (25 avril 1874), in Ex. cat., Centenaire de l’Impressionnisme, Paris: Grand Palais, 1974, p. 260.
(2)Théodore Duret, Les Peintres Impressionnistes, Paris, 1878. 邦訳、テオドール・デュレ「印象派の画家たち」横山由紀子・岩本由美子・高橋治・寺田鮎美・宮坂奈由訳、三浦篤・中村誠監修『印象派とその時代――モネからセザンヌへ』美術出版社、二〇〇三年; Bernard Dunstan, Painting Methods of the Impressionists, New York, 1976. 邦訳、バーナード・ダンスタン『印象派の技法』長峰朗・水沢勉訳、グラフィック社、一九八〇年等。
(3)Werner Sombart, Die Zähmung der Technik, Berlin, 1935, p. 10. 邦訳、W・ゾムバルト「技術の馴致」『技術論』阿閉吉男訳、科学主義工業社、一九四一年、一四頁。
(4)Pierre-Maxime Schuhl, Machinisme et philosophie, Paris, 1938, pp. 56-57. 邦訳、P-M・シュル『機械と哲学』粟田賢三訳、岩波書店(岩波新書)、一九七二年、六五頁。
(5)Karl Marx, The Communist Manifesto, London, 1848; New York, 2013, p. 62. 邦訳、マルクス/エンゲルス『共産党宣言』大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波書店(岩波文庫)、一九七一年、四一頁。
(6)Werner Sombart, Technik und Wirtschaft, Dresden, 1901, p. 19. 邦訳、W・ゾムバルト「技術と経済」『技術論』阿閉吉男訳、科学主義工業社、一九四一年、八六頁。
(7)松井道昭『フランス第二帝政下のパリ都市改造』日本経済評論社、一九九七年。
(8)Walter Benjamin, “Das Passagen-Werk,” in Gesammelte Schriften, V(1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, p. 186. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(Ⅰ)』今村仁司・大貫敦子・高橋順一・塚原史・三島憲一・村岡晋一・山本尤・横張誠・與謝野文子訳、岩波書店、一九九三年、二一六頁。
(9)Ibid., p. 187. 邦訳、同前、二一八‐二一九頁。
(10)Georg Simmel, “Die Großstädte und das Geistesleben” (1903), in Brücke und Tür, Stuttgart, 1957, pp. 227-228. 邦訳、ゲオルク・ジンメル「大都市と精神生活」居安正訳、『橋と扉』酒田健一・熊沢義宣・杉野正・居安正訳、白水社、一九九八年、二七〇頁。
(11)Ibid., p. 232. 邦訳、同前、二七四頁。
(12)Ibid., pp. 233-234. 邦訳、同前、二七六頁。
(13)Georg Simmel, Soziologie: Untersuchungen über die Formen der Vergesellschaftung, Berlin, 1908, p. 483. 邦訳、ゲオルク・ジンメル『社会学(下)』居安正訳、白水社、一九九四年、二四六頁。
(14)Simmel, “Die Großstädte und das Geistesleben,” pp. 234-235. 邦訳、ジンメル「大都市と精神生活」二七七頁。
(15)Simmel, Soziologie, p. 484. 邦訳、ジンメル『社会学(下)』二四八‐二四九頁。
(16)Erving Goffman, Behavior in Public Places, Notes on the Social Organization of Gatherings, New York, 1963, pp. 83-95. 邦訳、アーヴィング・ゴッフマン『集まりの構造』丸木恵祐・本名信行訳、誠信書房、一九八〇年、九三‐一〇四頁。
(17)Zygmunt Bauman, Thinking sociologically, Oxford, 1990, pp. 66-67. 邦訳、ジグムント・バウマン『社会学の考え方』奥井智之訳、HBJ出版局、一九九三年、八七‐八八頁。
(18)Ibid., p. 68. 邦訳、同前、八九頁。
(19)Paul Virilio, L'horizon négatif: essai de dromoscopie, Paris, 1984, pp. 57-58. 邦訳、ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン――速度と知覚の変容』丸岡高弘訳、産業図書、二〇〇三年、五二頁。
(20)Friedrich Engels, Die Lage der arbeitenden Klasse in England und andere Schriften von August 1844 bis Juni 1846, Glashütten im Taunus, 1970, pp. 29-30. 邦訳、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態(上)』一條和生・杉山忠平訳、岩波書店(岩波文庫)、一九九〇年、六二‐六四頁。
(21)Walter Benjamin, “Paris, die Hauptstadt des XIX. Jahrhunderts” (1935), in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, p. 54. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「パリ――十九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、一九九五年、三四六頁。
(22)Walter Benjamin, “Das Passagen-Werk,” in Gesammelte Schriften, V (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982; Dritte Auflage, 1989, p. 326. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論(Ⅱ)』今村仁司・大貫敦子・高橋順一・塚原史・吉村和明・三島憲一・村岡晋一・山本尤・横張誠・與謝野文子・細見和之訳、岩波書店、一九九五年、五六頁。
(23)Walter Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire” (1939), in Gesammelte Schriften, I (2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1974; Dritte Auflage, 1990, p. 623. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、一九九五年、四四一頁。
(24)Charles Baudelaire, “Les Fleurs du mal” (1861), in Œuvres complètes, I, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1975, pp. 92-93. 邦訳、シャルル・ボードレール「悪の華(第二版)」『ボードレール全詩集(Ⅰ)』阿部良雄訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、一九九八年、二一二‐二一三頁。
(25)Walter Benjamin, “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit [Zweite Fassung]” (1935-1936), in Gesammelte Schriften, VII (1), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1989, p. 379. 邦訳、ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション(1)』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、一九九五年、六二三頁。
(26)Cited in Wolfgang Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise: Zur Industrialisierung von Raum und Zeit im 19. Jahrhundert, Munchen, 1977; Frankfurt am Main, 2004, p. 65. 邦訳、ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史――一九世紀における空間と時間の工業化』加藤二郎訳、法政大学出版局、一九八二年、八八頁より引用。
(27)Paul Valery, “Le retour de Hollande” (1926), in Œuvres, I, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1957, p. 848. 邦訳、ポール・ヴァレリー「オランダからの帰り道」野田又夫訳、『ヴァレリー全集(9)』筑摩書房、一九八三年、八八頁。
(28)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire,” p. 630. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」四四九‐四五〇頁。
(29)Charles Baudelaire, “Le Peintre de la vie moderne” (1863), in Œuvres complètes, II, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1976, pp. 691-692. 邦訳、シャルル・ボードレール「現代生活の画家」『ボードレール批評(2)』阿部良雄訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、一九九九年、一六三‐一六四頁。
(30)Charles Baudelaire, “Le Spleen de Paris” (1869), in Œuvres complètes, I, Paris: Gallimard (Bibliothèque de la Pléiade), 1975, p. 291. 邦訳、シャルル・ボードレール「パリの憂鬱」『ボードレール全詩集(2)』阿部良雄訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、一九九八年、三七頁。
(31)Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise, p. 34. 邦訳、シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』四七頁。
(32)Benjamin, “Paris, die Hauptstadt des XIX. Jahrhunderts,” p. 54. 邦訳、ベンヤミン「パリ――十九世紀の首都」三四六頁。
(33)Edgar Allan Poe, “The Man of Crowd” (1840), in The Portable Edgar Allan Poe, Penguin books, 1945, p. 108. 邦訳、エドガア・アラン・ポオ『ポオ全集(4)』谷崎精二訳、春秋社、一九七〇年、一二八頁。
(34)Hippolyte Taine, De l’intelligence, I, Paris, 1870, p. 13. 邦訳、三浦篤「印象派再考」、三浦篤・中村誠監修『印象派とその時代――モネからセザンヌへ』美術出版社、二〇〇三年、二〇頁に引用。
(35)Émile Zola, L’Œuvre (1886), in Œuvres complètes, XIII, Paris: Nouveau Monde, 2005, pp. 63-64. 邦訳、エミール・ゾラ『制作(上)』清水正和訳、岩波書店(岩波文庫)、一九九九年、一三〇頁。
(36)James Joyce, Dubliners, London, 1914; Penguin edition, 1967, p. 47. 邦訳、ジョイス『ダブリンの市民』結城英雄訳、岩波書店(岩波文庫)、二〇〇四年、八七頁。
(37)今村仁司『群衆――モンスターの誕生』筑摩書房(ちくま新書)、一九九六年、一八七頁。
(38)Baudelaire, “Le Spleen de Paris,” p. 29. 邦訳、ボードレール「パリの憂鬱」三七‐三八頁。
(39)Ibid., p. 291. 邦訳、同前、三八頁。
(40)Jules Romains, “Rien ne cesse d’être intérieur”, in La Vie unanime: poèms 1904-1907, Paris, 1908; Éditions de la nouvelle revue française, Paris, 1926, pp. 48-49. 邦訳、ジュール・ロマン「なにごとも内的で……」松本真一郎訳、『フランス詩大系』窪田般彌責任編集、青土社、一九八九年、五四七‐五四八頁。
(41)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire,” p. 628. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」四八四頁。
(42)Arnold Hauser, Sozialgeschichte der Kunst und Literatur, Bd. 2, München, 1953, p. 417. 邦訳、アーノルド・ハウザー『芸術の歴史(3)』高橋義孝訳、平凡社、一九五九年、一〇一六頁。
(43)Ibid., p. 425. 邦訳、同前、一〇二四頁。なお、萩原朔太郎も「群集に關する小エツセイ」(一九三一年)で、「本當の孤獨と言ふものは――ボオドレエルの言つた通り――群集の中でのみ味ははれる」と述べている。萩原朔太郎『萩原朔太郎全集(第五巻)』筑摩書房、一九七六年、三三二頁。
(44)Ernest d’Hervilly, “L’exposition du boulevard des Capucines” (17 avril 1874), in Centenaire de l’Impressionnisme, p. 257.
(45)Ernest Chesneau, “À coté du Salon: II. ― Le plein air, Exposition du boulevard des Capucines” (7 mai 1874), in Centenaire de l’Impressionnisme, p. 269.
(46)John Rewald, The History of Impressionism, New York: The Museum of Modern Art, 1946; 4th revised edition, 1973, p. 372. 邦訳、ジョン・リウォルド『印象派の歴史』三浦篤・坂上桂子訳、角川学芸出版、二〇〇四年、二六七‐二六八頁。
(47)Pour ou contre L’impressionnisme, texts de grands écrivains réunis et présentés par Serge Fauchereau, Paris, 1994, p. 125. 邦訳、セルジュ・フォーシュロー『印象派絵画と文豪たち』作田清・加藤雅郁訳、作品社、二〇〇四年、一七六頁。
(48)Gustave Geffroy, “Claude Monet” (1883), in Charles F. Stuckey (ed.), Monet: A Retrospective, New York, 1985, p. 97.
(49)深谷克典「第一回印象派展とキャプシーヌ大通り」『モネ展』図録、中日新聞社、一九九四年、二五三‐二五九頁。
(50)Daniel Wildenstein, Claude Monet: biographie et catalogue raisonne, I, Lausanne-Paris, 1974, p. 419.
(51)Camille Pissarro, Lettres à son fils Lucien, présentées avec l’assistance de Lucien Pissarro par John Rewald, Paris, 1950, p. 442.
(52)Henry Dauberville, La Bataille de l’impressionnisme, Paris, 1967, p. 299. 邦訳、アンリ・ドベリビル『印象主義の戦い』中山公男編訳、毎日新聞社、一九七〇年、一三八頁。
(53)Marshall and Eric McLuhan, Laws of Media: the New Science, Toronto: University of Toronto Press, 1988, p. 146. 邦訳、マーシャル・マクルーハン/エリック・マクルーハン『メディアの法則』高山宏監修、中澤豊訳、NTT出版、二〇〇二年、一九六頁。
(54)Benjamin, “Über einige Motive bei Baudelaire,” p. 629. 邦訳、ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」四四八‐九頁。
(55)『エドワルド・ムンク展』図録、兵庫県立近代美術館、一九七〇年、一七一頁。
(56)L. Moholy-Nagy, Malerei Fotografie Film, Berlin, 1925. 邦訳、L・モホリ=ナギ『絵画・写真・映画』利光功訳、中央公論美術出版(バウハウス叢書8)、一九九三年、三七頁。
(57)Ozenfant et Jeanneret, La peinture modern, Paris, 1924. 邦訳、A・オザンファン/E・ジャンヌレ『近代絵画』吉川逸治訳、鹿島出版(SD選書)、一九六八年、七三‐七四頁。
(58)Wassily Kandinsky, Rückblicke, Bern, 1977. 邦訳、カンディンスキー『カンディンスキー著作集4 回想』西田秀穂訳、美術出版社、二〇〇〇年、一二四‐一二五頁。
(59)印象派の固有色の否定については、写真や近代照明が与えた影響も推定される。詳しくは、第9章から第12章を参照。
(60)なお、エドガー・ドガが「印象派」の代りに「カピュシーヌ派」を主張していたこともまた、印象派と大都市群集の親和性を示す一つの事例でありうる。Rewald, The History of Impressionism, p. 313. 邦訳、リウォルド『印象派の歴史』二三一頁。
(61)Daniel Wildenstein, Claude Monet: Biographie et catalogue raisonné, IV, Lausanne-Paris, 1985, p. 421.
(62)Georges Friedmann, La Puissance et la Sagesse, Paris, 1970, p. 42. 邦訳、ジョルジュ・フリードマン『力と知恵(上)』中岡哲郎・竹内成明訳、人文書院、一九七三年、五二頁。
(63)萩原朔太郎は、次のように続けている。「群集は都會生活の情操であり、意志を持つてる背景である。それ故に都會人等は、群集のない風景を想像し得ず、群集のない生活を考へ得ない。自然の美に對してすら、彼等は群集と共に觀光し、群集を背景として見ようとする。そして風光明媚の地を、賑やかな都會的遊園地に變へてしまふ。(これを人々は俗化と言ふ。だが俗化しないどんな自然も、都会人にとつては美でないのだ。自然は俗化するほど美しくなる。)」。萩原朔太郎『萩原朔太郎全集(第五巻)』筑摩書房、一九七六年、三三一頁。既に、一九一〇年代半ばには日本でも大都市群集による知覚の変容が一般化していたことは、萩原朔太郎の「群集の中を求めて歩く」(一九一六年)から分かる。「私はいつも都會をもとめる/都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる/群集はおほきな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ/どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷだ/ああ ものがなしき春のたそがれどき/都會に入り込みたる建築と建築との日影をもとめ/おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか/みよこの群のながれてゆくありさまを/ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり/浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ/ひとのひとりひとりにもつ憂ひと悲しみはみなそこの日影に消えてあとかたもなし/ああ なんといふやすらかな心で私はこの道をも歩みすぎ行くことか/ああ このおほひなる愛と無心のたのしき日影/たのしき浪のあなたにつれられてゆく心もちは涙ぐましくなるやうだ」(萩原朔太郎「群集の中を求めて歩く」『萩原朔太郎全集(第一巻)』筑摩書房、一九七五年、一三八‐一三九頁)。また、萩原は「群集の中に居て」(一九三五年)で、大都市群集について次のように繰り返している。「げに都會の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の單位であつて、しかも全體としての綜合した意志をもつてる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全體の動く意志の中で、私がまた物を考へ、爲し、味ひ、人々と共に樂んで居る。心のいたく疲れた人、重い惱みに苦しむ人、わけても孤獨を寂しむ人、孤獨を愛する人にとつて、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。――都會は私の戀人。群集は私の家郷。ああ何所までも何所までも、都會の空を徘徊しながら、群集と共に歩いて行かう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行かう。群集の中を流れて行かう」(萩原朔太郎『萩原朔太郎全集(第二巻)』筑摩書房、一九七六年、三一七頁)。
(64)なお、大都市群集による知覚の変容は、ポップ・アートのアンディ・ウォーホルとも親和的である。「街路には間合いがある。もし長い間、例えば五年位会っていなかった人に出会っても、一定の調子で全てを演じる。お互いに出会っても、ビートを崩さない、それがベスト。『ずーっとどうしてたの?』なんて言わない。つまり、過去に遡ろうなんてしない。例えば、八番街にフローズン・カスタードを食べに行く途中さとか、相手も映画を見に行く途中だよとか言えば、それで良し。気楽な情報交換だけ。とても軽くて、クールで、即妙で、とてもアメリカ的。誰もうろたえたり、間合いを外したり、取り乱したり、ビートを崩したりしない。うまく行くとそうなる。そして、誰かが君に誰それはどうしてるのと尋ねれば、『ああ、彼なら五三番街でビールを飲んでたのを見たよ』と言えば良し。一定の調子で全てを演じるだけ、まるで一切が昨日のことのように」(Andy Warhol, The Philosophy of Andy Warhol: From A to B and Back Again, New York, 1975, p. 111. 邦訳、アンディ・ウォーホル『ぼくの哲学』落石八月月訳、新潮社、一九九八年、一五〇頁)。

 本稿は、2010年10月10日に関西学院大学で開催された美学会第61回全国大会で口頭発表し、2011年3月に『第61回美学会全国大会若手研究者フォーラム発表報告集』で論文発表した、「印象派と大都市群集――ヴァルター・ベンヤミンの『アウラ』概念を手掛りに」を加筆修正したものである。

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