年号 年齢 ポール・セザンヌ エミール・ゾラ 芸 術 一 般
1825 ストックトン=ダーリントン鉄道(世界初の旅客用蒸気鉄道)
1830 ピサロ出生 リヴァプール=マンチェスター鉄道
1832 マネ出生
1834 ドガ出生
1837 モールスが電信を発明
パリ=サン・ジェルマン鉄道(フランス初の旅客用蒸気鉄道)
サン・ラザール駅
1839 0 セザンヌ出生(エクス・アン・プロヴァンス) パリ=ヴェルサイユ鉄道(右岸線)
1840 1 ゾラ出生(パリ) モネ出生 パリ=ヴェルサイユ鉄道(左岸線)
1841 2 ルノワール出生
1842 3 「鉄道憲章」制定により鉄道建設が隆盛
1843 4 エクスに転居 パリ=オルレアン鉄道
パリ=ルーアン鉄道
ボニエール駅
1844 5 ターナー《雨・蒸気・速力》
1845 6 パリ=リール鉄道
1846 7 ボードレール『一八四六年のサロン』
1847 8 父の死
1848 9 父が銀行を開業 カイユボット出生 エスタック=マルセイユ鉄道
1852 13 ブルボン中学校でゾラと知り合う
以後共に自然と芸術に親しむ
ブルボン中学校でセザンヌと知り合う ナポレオン三世即位・第二帝政(1852-70)
パリ=リヨン鉄道
1853 14 パリ=ボルドー鉄道
パリ=ストラスブール鉄道
オスマンのパリ大改造(1853-70)
1855 16 世界初の個展でクールベ《オルナンの埋葬》(1849-50)を展示
クールベ「写実派宣言」
第一回パリ万国博覧会
パリ=マルセイユ鉄道
1856 17 ラスキン『近代画家達(三)』 エクス=ロニャック鉄道
1857 18 エクス市立素描学校でジベールに師事 ドラクロワ「美の多様性」
ボードレール『悪の華』
PLM(パリ=リヨン=マルセイユ)鉄道会社設立
1858 19 エクスの法科大学に進学 パリへ上京
1859 20 父が購入したジャ・ド・ブッファンをアトリエとする バカロレア試験に二度失敗
1860 21 《四季》(1860-61)に「アングル」と偽りの署名 この頃、セザンヌの画業専念をパリから文通で激励 クールベ《大地の耕作者達》
1861 22 画業に専念、パリへ初上京
パリでゾラと再会
ピサロと知り合う
挫折して一旦エクスへ帰郷
無名娼婦と同棲し純愛に幻滅か
パリでセザンヌと再会
シャンフルーリ『昨今の巨匠達』
ボードレール『悪の華』(再版)
ガスティノウ『鉄道人生』
1862 23 エクスとパリの転住生活開始 アシェット出版社入社 ドーミエ《三等列車》(1862-64)
1863 24 ゾラとパリ=ソー鉄道に乗車
落選者展に出品か
この頃、モネやルノワールと知り合う
落選者展をセザンヌと鑑賞 落選者展でマネ《草上の昼食》(1862-63)を展示
ボードレール『近代生活の画家』
パリ=ブレスト鉄道
1864 25 アレクサンドリーヌと恋愛 ドービニー《ボニエールの船着場》
1865 26 以後、サロンに連続落選 『クロードの告白』
「プルードンとクールベ」
サロンでマネ《オランピア》(1863)を展示
モネ《草上の昼食》(1865-66)
クラルティー『パリ人達の旅行』
ベルナール『実験医学研究序説』
1866 27 この頃、マネやドガと知り合う
ベンヌクールでゾラと夏休暇
《ボニエールの船着場》
《モティーフへ出かけるマリオンとヴァラブレーグ》
《ルイ=オーギュスト・セザンヌの肖像、『レヴェヌマン』紙を読む画家の父》
マネのアトリエを訪問
『レヴェヌマン』紙で反アカデミズムのサロン評を連載するが中断させられる
『我が憎悪』
『我がサロン』
サロン審査時にドービニーがセザンヌを擁護
この頃、カフェ・ゲルボワの集いに、マネ、ドガ、ピサロ、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゾラ等が参加
1867 28 《切通し》(1867-68)
《サングル山付近の工場》(1867-69)
『エドゥアール・マネ――伝記批評研究』
『テレーズ・ラカン』
クテュール『画法と画談』
ピサロ《サン・オーエン・ロモーヌのオワーズ川の土手》
第二回パリ万国博覧会
1868 29 『我がサロン』
「ルーゴン=マッカール叢書」の構想に着手
マネ《エミール・ゾラの肖像》
ピサロ《パティの風景、ポントワーズ》
1869 30 《エスタックの工場》 モネ《ラ・グルヌイエール》
1870 31 《サント・ヴィクトワール山と切通し》(1870頃)
《殺人》(1870頃)
アレクサンドリーヌと結婚
『ルーゴン家の運命』
モネ《田舎の列車》
ピサロとモネがターナー《雨・蒸気・速力》(1844)を見るか
普仏戦争(1870-71)
エクス=メイラルギュ鉄道
ヴェルレーヌ『優しい歌』
1871 32 徴兵を拒否 『獲物の分け前』 ピサロ《ロードシップ・レイン駅、東ダリッジ》 パリ・コミューン
1872 33 《パリ:ベルシーの川岸》
ポントワーズ周辺でピサロと屋外写生
パリ=リール鉄道に乗車
モネ《貨物列車》
モネ《アルジャントゥイユ駅》
モネ《印象――日の出》
ヴェルヌ『八〇日間世界一周』
1873 34 《オーヴェール・シュル・オワーズ近郊の小さな家並》(1873-74)
《近代のオランピア》(1873-74)
『パリの胃袋』 マネ《蒸気鉄道》
モネ《カピュシーヌ大通り》
モネ《アルジャントゥイユの鉄道橋》
ルノワール《アルジャントゥイユの鉄道橋》
ピサロ《鉄道沿いの道》
1874 35 印象派の第一回展に参加
印象派を文筆で擁護
『プラッサンの征服』
印象派の第一回展 ランボー『イリュミナシオン』
マラルメ『最新流行』
1875 36 『ムーレ神父のあやまち』 モネ《雪の中の列車》 第三共和国憲法制定
1876 37 (第二回印象派展に不参加)
《エスタックの海》
『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』 第二回印象派展
カイユボット《ヨーロッパ橋》
ドガ《競馬場にて、素人騎手達》(1876-87)
デュランティ『新しい絵画』
ベルが電話を発明
1877 38 第三回印象派展に参加
(以後、印象派展には不参加)
第三回印象派展のモネのサン・ラザール駅連作を絶賛
『居酒屋』
モネ《サン・ラザール駅、汽車の到着》
第三回印象派展
エクス=マルセイユ鉄道(これによりエクスとパリが蒸気鉄道で直結)
1878 39 エクス=マルセイユ鉄道の疾走する汽車から眺めたサント・ヴィクトワール山を「何と美しいモティーフだろう」とゾラに書き送る
この頃から、サント・ヴィクトワール山連作を開始
《ヴァルクロ街道から見たサント・ヴィクトワール山》(1878-79)
《エスタックから見たマルセイユ湾》(1878-79)
『愛の一ページ』
メダンに豪邸を建設(敷地はパリ=ル・アーヴル鉄道に隣接)
メダンの集いを開催しユイスマンスらが集まる
自然主義文学の領袖として文壇的地位を確立
セザンヌと次第に疎遠になっていく
デュレ『印象派の画家達』 第三回パリ万国博覧会
1879 40 《エスタックの陸橋》(1879-82)
ゾラ邸訪問後、パリ=ル・アーヴル鉄道の疾走する汽車からゾラに手を振る
第四回印象派展
ユイスマンス『ヴァタール姉妹』
電気鉄道の実用化
1880 41 《メダンの城》 『ナナ』
『実験小説論』
第五回印象派展
1881 42 《ポントワーズの橋と堰》 『自然主義作家論』 第六回印象派展
1882 43 特別規則の救済措置でサロン初入選
《ベルヴュから見たサント・ヴィクトワール山》(1882-85)
《エスタックの陸橋》
『ごった煮』 第七回印象派展
ルノワールがエスタックでセザンヌと共に制作
マネがレジオン・ドヌール勲章を受章
1883 44 エスタック駅の上方に借家
《アルク渓谷の陸橋》(1883-85)
『ご婦人方の幸福』 マネ死去
シニャック《ジュヌヴィリエの道、パリ郊外》
ユイスマンスが『近代美術』でセザンヌを無視したことをピサロが非難
1884 45 『生きる歓び』 シニャックがセザンヌの風景画を購入 ユイスマンス『さかしま』
1885 46 この頃、エクス=マルセイユ鉄道に頻繁に乗車
《アルク渓谷》(1885頃)
《ガルダンヌ、古い橋》(1885-86)
『ジェルミナール』 自動車の実用化
1886 47 『制作』によりゾラと絶交か
オルタンスと結婚、父の死により莫大な遺産を相続
《サント・ヴィクトワール山と大松》(1886-87)
『制作』(セザンヌを主なモデルとする主人公の画家が挫折の果てに自殺する) 第八回印象派展
スーラやシニャックの新印象派が台頭
モネがゾラの『制作』に懸念を表明
1887 48 《サント・ヴィクトワール山と大松》(1887頃) 『大地』
1888 49 『夢』 ルノワールがエクスでセザンヌと共に制作 ユイスマンス「三人の画家」
1889 50 パリ=ル・アーヴル鉄道の蒸気機関車に乗車取材 第4回パリ万国博覧会
エッフェル塔
1890 51 妻オルタンスや息子ポールと共にスイスを旅行 『獣人』(パリ=ル・アーヴル鉄道が舞台) カサット《橋を渡る市街電車の車内》(1890-91)
1891 52 妻子をエクスへ呼び戻す 『金』 フランスで自動車の商業化
1892 53 この頃、《カードで遊ぶ男達》を連作 『壊滅』 ドガが鉄道乗車視覚に感化された風景画を連作
1893 54 『パスカル博士』 ヴォラールが画廊を開く
1894 55 「ゴーギャン氏は私から小さな感覚を盗んだ!」 モネがジヴェルニーにセザンヌやミルボーを招く
1895 56 ヴォラール画廊で最初の個展
(ピサロ、ドガ、モネ、ルノワールが作品を入手)
この頃から、写真機で蒸気鉄道を度々撮影 モネがコルサース山を連作
ルノワールがエクスでセザンヌと共に制作
ドレフュス事件
マルコーニが無線を発明
1896 57 オレルを置き去りにしてPLM鉄道の一等車に乗車 サロン評でセザンヌを「偉大な挫折した画家」と呼ぶ ヴォラールがエクスにセザンヌを訪問
1898 59 「私は弾劾する」
1899 60 《リンゴとオレンジ》(1899頃) シニャック『ドラクロワから新印象派まで』
1900 61 ドニ《セザンヌ礼讃》 第5回パリ万国博覧会
パリに地下鉄が開通
1902 63 ゾラ死去(パリ)
1903 64 サント・ヴィクトワール山を描き続ける 《ボニエールの船着場》(1866夏)等が遺品競売される ピサロ死去
サロン・ドートンヌ創設
エクス=マルセイユ鉄道の電車が開通
ライト兄弟が有人動力飛行
1904 65 「自然を、円筒体、球体、円錐体によって扱い、全てを遠近法の中に置きなさい」 ベルナールがエクスにセザンヌを訪問後、文通を重ねる
1905 66 ベルナールとエクス=マルセイユ鉄道の電車に乗車 ヴォークセルの取材でモネがセザンヌを高く評価
サロン・ドートンヌで野獣派(フォーヴィズム)誕生
1906 67 セザンヌ死去(エクス・アン・プロヴァンス) ドニ《セザンヌ訪問》
デュレ『印象派絵画史』
1907 サロン・ドートンヌでセザンヌ回顧展 ベルナール「回想のポール・セザンヌ」
ピカソ《アヴィニョンの娘達》
立方体派(キュビズム)誕生
ミルボー『628-E9』
1908 ブラック《エスタックの家並》 ラルボー「ヨーロッパ」
1909 マリネッティ「未来派宣言」 ルイ・ブレリオが英仏海峡横断飛行
1910 この頃から、欧米各地で抽象絵画が台頭
1913 アポリネール『立方体派の画家達』 サンドラール『シベリア横断鉄道とフランスの少女ジャンヌの散文詩』
1914 ヴォラール『ポール・セザンヌ』 レジェ「絵画における最近の成果」 第一次世界大戦(1914-18)
1915 マレーヴィチ『立方体派・未来派から絶対派へ』


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